エッセイ集(A) (第1~3話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。・・・・・・・・・・・第4話~第6話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第1話  アパルトヘイト時代の忘れ得ぬ白人秘書

 

1960年代と1980年代に2回、当時の日本の重要大型貿易先であった南アフリカのヨハネスブルク市に生活していた時の経験は、二度とない貴重で特異な経験でもあった。当時、南アフリカは悪名の高いアパルトヘイトと云われる人種差別をしていた為に、全世界から経済制裁と文化交流禁止の制裁を受けていた。

アパルトヘイト時代の南アフリカは、本当に特異な国で、人種差別が徹底的に行われていた。エレベーターもトイレも白人専用で、有色人種用は白人用とは別に用意されており、

完全に区別されていた。レストランも理髪も白人のみ入店が許され有色人種は入店出来なかった。有色人種は、黒人、アジア人、カラード(異人種間の混血)と区別され、南アの人種は、白人、アジア人、カラード、黒人と4人種に区別されていた。

僕が初めて海外駐在勤務で南アのヨハネスブルグに赴任したのは、196912月で香港から南ア航空(SAS)で、大陸の上空は、飛ぶことが出来ず、南の海上の上を飛びロンドン経由の大変な長旅であった。ロンドンからヨハネスブルグ迄もアフリカ大陸の上空は飛行出来ず、常に海上の飛行のみで初めて陸地が見えたのは、南アに入ってからだ。

機中で入国手続用の用紙が配られたので記入していたら、スチューアデスが僕の席で立ち止まり、記入した用紙を見て人種の欄が間違っているので訂正して下さいと云われてびっくりした。僕は日本人だから当然アジア人と記入したのを指摘され、日本人はヨーロッピアン(白人)に丸を付けるようにと云われた。極めて複雑な気持ちで南ア大陸に最初の1歩を踏み出した。

 一方、日本にとって南アは、先端技術の開発には欠かせない希少金属(ニッケル、クロム、モリブデン、マンガン等)や鉄鉱石等多くの資源の輸入先として欠かす事の出来ない最重要貿易相手国であった。

南ア以外に日本の必要とする重要資源は、当時の冷戦時代の仮想敵対国であったソ連や中国に集約されている為、両国からは輸入する事が出来ない事情にあった。

日本の国としても、業績を挙げようとする民間企業としても大きなジレンマを抱えながら生きていかざるを得ない時代であった。

アパルトヘイト時代の南アは、欧米系の白人最優先で上述の如く4分類されて統治されていた。日本人は本来、アジア人である筈なのに、何故か白人扱いで、俗称、「名誉白人」と云われていた。

日本人は誰も白人扱いされる事を名誉と思っている人は,一人も居ないが、心ない日本の評論家の中には、日本の駐在員を見当違いにも非難する者がいた。多少大げさに云えば、冷戦下にあって、戦後の復興をかけてジレンマを抱えながらも国の死活問題として必死になって働いている人に対して浴びせる言葉ではない。

 そんなデリケートな南アでの仕事は、想像を越えた苦労の連続でもあった。アパルトヘイト白人政府への抵抗テロ活動に巻き込まれる

生命の危険や保守的白人ビジネスマンからの日本人を含めた有色人種への差別的な眼差し等々、気の休まる日のない生活であった。

この頃、パーティー好きの南ア人達には公私にわたりパーティーへの

招待が相互に行われ、招待されたり、招待したり、それなりに楽しめる機会も多かったのも事実である。そんな環境の中で、僕が勤務する会社として僕がホスト役として招待状を出す機会も多く、その場合は、ご夫婦でご招待するのが礼儀であった。アパルトヘイト時代の招待客は例外なく白人のみの客であり、ホスト側も白人カップルか日本人がホストの時は日本人同志のカップルであるべきだった。異人種間の異性の交流が禁止されていた為である。

 ところが、当時、海外駐在になっても家族は数か月後か一年後に赴任することになっていた為に、家族が赴任するまでは、男性のみの単独ホストとなってしまうので、殆んどの場合、僕のホステス役はイタリア系美人秘書が僕のパートナーとして常にホステス役を務めてくれた。その献身的な振る舞いは、気の利く日本人女性も及ばぬ程のもので、常に僕を心からサポートしてくれた。彼女はイタリア系だがアフリカーンス語をしゃべる極めて保守的と言われたボーア人で、アパルトヘイト政策の継続を求めるグループの先鋒的民族にも拘わらず、有色人種である僕達を徹底的にサポートしてくれる姿勢には心を打たれた。彼女と同じボーア系の客でも失礼な仕草があれば、激しく叱責する姿は頼もしくもあり、感謝の気持が溢れ出るのをこらえられない程嬉しかった。

旧オランダ語が長い間に変化してアフリカーンス語と云われるようになったが、祖先はオランダ系の貧しい農民が移住して来た人種で、頑固だが、人情に厚く、仲間を大切にする点では、古き良き時代の日本人的にも思えた。

南アのパーティーは、終りがない程延々と続き、時間が来てもなかなか帰らないので、ホスト役が最後に退室する時は、深夜を過ぎることが多かった。標高1800メートルの高地にあるヨハネスブルグは昼と夜の寒暖差は大きく、冬の深夜は寒さが身に染みる。デコルテの大きく開いたパーティードレスを纏ったホステス役の秘書にとっては、客を会場のレストランの出口に立って、全ての招待客を見送る迄、震えが止まらぬ程の寒さを忍んでいたことと想像する。全ての招待客を見送った後、やっと二人で帰ることが出来るのだが、深夜に及ぶ時は、運転手は先に帰し、僕が運転をして彼女の家まで送るのが常であった。

彼女の家に着くときまって、玄関前で、二人の押し問答がくり返されるのが常であった。遅いので早く寝させてあげたいと思う僕と、帰る前に温かいコーヒーを僕に飲ませようとする彼女との間の押し問答だった。彼女の父親である陸軍大将の邸宅は大きいとは言え、静まり返った深夜にゴソゴソとコーヒーを沸かさせるのは、本当に申し訳ないと思うが最後は彼女の申し出に甘える結果となった。彼女にとっては、一生懸命にホスト役を務めた僕への労いの気持だと思うが、僕の方から云えば、もう感謝の表現も見つからない。その日の彼女の献身的なホスト役に感謝の気持も、労いの言葉も失っている。

彼女のいれてくれた熱いコーヒーを急いで飲んで、帰る時、又、心配事が起きるのが常であった。僕が車を運転して彼女の家の門を離れる迄、彼女は玄関の前に立って見送るのであった。胸の大きく空いたパーティードレスのまま、寒空にきちんと立って笑顔で見送ってくれるのであった。寒さが身に染みる深夜に、一分たりとも立たせたくないと気づかいながら一人帰路を急いだ。

優しさと、職務に忠実な日本人は世界一と思って過ごして来た、僕の人種感に修正を加えた瞬間でもあった。

我が伴侶役を立派に務めてくれたパートナーは、今、何処でどんな生活をしているのか。政権が変ってそろそろ25年がたち、黒人社会となって治安が著しく悪くなってしまった国で、我がパートナーの彼女の安全と幸せを心から祈ることしか出来ない。

 

第2話  南アフリカ無血開城の立役者達 

僕の2度目の南アヨハネスブルグ駐在は1982年から1987年迄の5年間だった。この頃は差別を受けていた黒人や有色人種によるテロ活動が一番激しい時期で毎日の様にテロ事件が報道されていた。市の中心部にあった僕の会社のオフイスと僕が住んでいた郊外のバードヘイブンの社宅とは車で20分程度の距離であったが、テロを避ける為、毎日通勤のドライブルートを変える等の注意をしたり、運転手には、黒人社会では最強と云われていたズール族の屈強な親分肌の男を採用していた。毎日何の事件が起きても不思議でない時期であった。

この悪名高い人種差別政策がどんな結末となるのか、誰も予測がつかず、流血の内乱か市民革命もあるやに思われていた

当時経済制裁を受けていた南ア白人政権は、南アは資源が非常に豊富な国でもあったので強気で、経済制裁で困るのは南アではなく制裁をしている

側の国だと反撃していた。南アに無い資源と云えば石油だけで、この弱点を無くす為に、ヨハネスブルグから1時間程離れた広大な土地に「石炭液化プラント」を南アの命運をかける程大規模なプラント群を建設した。

これが、「SASOL石炭液化プラント」と呼ばれ、南アに無尽蔵にある褐炭

から石油を製造すると云う前代未聞の大プロジェクトで、南アで必要とされる交通機関に必要なエネルギーが確保されると云う。

従って南アとしては、経済制裁は全く怖くないと云う強気の態度となっている。この大プロジェクトのお蔭で、経済制裁を支持している日本のみならず欧米各国も直接的にも間接的にも可なりの恩恵に浴しているものと思われる。南アの国が強硬になれば先が読めず、不測の暴動、流血革命になるかもしれず、僕も商社マンとして情報を色々なルートで収集していた。

FWディクラークが白人最後の南アの大統領となったのは、1989年であるが僕が南ア駐在中の1980年代前半は教育大臣で未だ大統領になる前で、

何かとディクラーク大臣とは、交流があった。彼の個人的な考えも率直に聞く機会があったので、貴重な情報を得る機会となった。彼はアパルトヘイトを支えている白人の国民党の議員で、その選挙区はヨハネスブルグから1時間程はなれたへレネヘン市と云う地域で、此の市の隣の地域が南アの国営製鉄所の主力工場があるファンダベールパーク市である。

この主力工場は、僕が若い時から担当していた製鉄機械のお得意先であった。従って彼の選挙区には隣の市の国営製鉄所で働いている白人が大半を占めているので、人種差別を支持する人が多く、この地域から選出された彼は強力な人種差別支持派と誤解されていたが、彼は早急にこの人種差別政策を廃止し、平和な国になって欲しいと願っているとの本音を述べていた。

彼の選挙区は製鉄所の労働者として働いている白人が殆んどで、人種差別を廃止したら黒人労働者が流入して、白人の職を奪ってしまうとの危惧を持っていると云う背景があると云う。俗に云うプーアホアイトと云われていた現場単純労働者達の悩みであろうか。

僕はこの時点で彼が強い信念を持って国の平和的な政策転換を目指している事を知った。国連の強い支持もあったことと思うが、彼の本音も同じ方向であることを知って安心した。このことは僕が日本に帰国後、1991年に彼が大統領の時に人種差別政策の廃止を実行したことを確認した。

これがスタートとなり、1994年には全人種参加による国民投票により

27年間も長期にわたりケープ沖の孤島に拘束されていたANC

ネルソンマンディーラが初の黒人大統領に選出された。

1993年にはネルソンマンディーラとディクラーク両氏は揃ってノーベル平和賞を受賞している。日本の江戸城の無血開城が思い出される。

尚、余談だが1985年、未だアパルトヘイトが廃止される前に、南アの現職の大臣が2人極秘裏に来日している。

春には環境大臣が来日し、夏にはP.ボタ外務大臣が来日した。南アには色々な制裁が未だ施行されているので、出来るだけ目立たぬ様にとの日本側の意向があったが、夏に訪日したボタ外務大臣が日本でテレビインタビューを受けてしまったので、この年の秋に訪日を予定していたディクラーク教育相は日本側当局の意向でビザが発給されないことになった。

この事を当時の在プレトリアのS日本大使がディクラーク教育相に伝えに行った際、ディクラーク大臣は日本行きを非常に重要視していたので、大変がっかりすると同時に激怒して、「どうしてだ!」と大声を出したと云う。そのS大使が帰った直後、僕の所にディクラーク大臣から電話があり、「日本は怪しからん。本年既に2人の南アの大臣が訪日してるのに、何故自分だけが許可されないのか?」と、激怒していた。

その電話が終わると直ぐにS大使からも僕に電話が有り、ビザが出せなく

なった原因は、夏に来日したボタ外務大臣にも内密裏での訪日をお願いしておいたのに公の記者会見を行ってしまった為に、日本での世論の批判が出て今後の両国の交易に更にブレーキが掛かる惧れがあるので、暫くは目立った交流を控えた方が、両国の為によいとの判断によるものだと知った。その際、S大使は、ディクラーク大臣の怒り様は激しく、傍にあった灰皿を投げつける素振りを示したと云う。

そこで僕は、これは僕の出番だと思って車でプレトリアに向かい、日本の議員会館の様なユニオンビルディングにある大臣室に向かった。

改めて事情を説明し、ボタ大臣が日本側の条件を無視して、マスコミに出た為に、日本での非難の世論を避ける為に暫くは、中止した方がよかろうとの判断によるものだから、両国の実質的な交易関係を閉ざさない為の日本政府の配慮によるものだから、堪えて下さいと詫びた。

その時のディクラーク大臣の反応は、ボタ大臣への厳しい苦言に変わった。後から分かった話だが、ディクラーク大臣とボタ大臣は次期大統領候補でデリケートな関係でもあったとのことである。

少なくとも日本が恨まれないでよかったと胸を撫で下ろした。

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもラリルレロワ・ヲ・ン

第3話 南アフリカのボーア人達

 南アフリカは、大航海時代貿易船の中継地として1652年にオランダの東インド会社(VOC)が現在の喜望峰に上陸し、ケープ州に国の原型を造って始まった国である。その後、ヨーロッパ大陸で始まった宗教戦争を逃れて安住の地を求めて移住してきた人種がフランス人、ドイツ人、イタリア人、イギリス人等々が加わった。オランダからの移住農民をボーア人と云ってますが、この時代に大陸から逃れて来たヨーロッパ人も含めて良いかと思います。旧オランダ語が原型となり、この時代に移民してきた人達が共通に使う言語を現在アフリカーンと呼んでいますが、この言葉を話す人をアフリカーナ―と呼ばれて居るようです。しかし、その後、南アから金やダイヤモンドを始め色々な貴重な資源が豊富な国であることが分かると、イギリスが積極的に参入して来て1880年から1902年にかけて、2度のボーア戦争となり、紆余曲折を経て、現在では主としてボア系の人が政治を支配し、英国系の会社が経済界を牛耳っている。南アの国営製鉄所のイスコールはボア系の経営者や幹部が多く、僕が親しくしていた人達はアフリカーンスを話すボーア人が殆どであった。

彼らは素朴で、家族や友人を大切にするので、僕ら日本人とは波長が合い

極めて親しくしていた。彼等はブラーイというバーベキューパーティを

週末や何かの記念の日に自宅の庭でしばしば行い、僕達を招待してくれたがいつも楽しい時を過ごす事が出来た。

僕が日本人学校の理事長を仰せ使っていた時に、日本人学校の近くに南アの名門大学の学生寮があり、ある日学生達がコンパでもして、したたかワインを飲んで大騒ぎをして、近所を走りまわり日本人学校の前で5~6人の学生が塀を乗り越えて、屋上にはためいていた日本の国旗を引きずり下ろそうと大騒ぎしていた時、日本人学校の隣の家のボーア人の老人がライフル銃を持って駆けつけ、銃を構えて学生達を大声で叱りつけ、校内から退去させると云う事件が起きた。人種差別政策がある国のことなので、国旗も絡むとデリケートな問題にもなるので、早速、理事長の僕にも報告が入った。

翌日僕は学校の校長や関係者と共に、そのボーア人の老人宅に伺って

お礼を申し上げに行ったら、逆に恐縮され南アの最高学府の学生が誠に

申し訳ない行動をしたことを謝罪されて、ボーア人の人柄に感激した。

一方、南アの人種差別が白人対有色人種だけかと、思っていたら白人どうしでも僕達があまりきずいていない差別があることを知って、吃驚した。

ご存知の如く、南アではゴルフを多くの人が楽しんでいたが、首都の

プレトリアにあるプレトリアカントリークラブは、東京で云えば小金井

カントリークラブ等のメンバーシップの審査の極めて厳しいクラブで、

日本人は誰もメンバーになった人がいなかった。ある時、南アの国営製鉄所の親しくしていたボーア人の部長に、僕がプレトリアCCのメンバー申請をしたいと駄目もとで云ったら、彼がプロポーザーになるから直ぐに申請しろと云って申込み用紙を持って来てくれた。どんな審査がされたのか不明だったが、1週間もたたない内に晴れて最も審査の厳しい筈のクラブの正式メンバーに選ばれたので吃驚した。

その際、彼は僕が初めての日本人メンバーだと云って他のメンバーと共に祝福してくれた。その時、プロポーザーに成ってくれたボーア人の部長が僕の耳元で、「このクラブにはユダヤ人のメンバーは一人もいないし、今後もいないよ」と囁いたので、又、ビックリした。

国営製鉄所の幹部にもユダヤ人は居たし、彼等と同じ白人の仲間であると思っていたのに、白人同士でも人種による差別があることを知らされた瞬間であった。

日本人が白人扱いなら、中国人や他のアジア人も白人扱いであっても良い筈だが、やはり有色人種と云う事で差別されていた。しかし、僕は家族が来る迄はヨハネスブルグの市内にある滞在型のホテルに泊まって居た時に、フロントにある宿泊者の名簿の中に、張とか朴とか明らかに中国や韓国の氏名が書かれているのを目撃したが、その国籍欄には皆、「日本人」と書かれていた。

僕はニヤリと笑って上手くやれよと心の中で拍手を送った。

だが、何時もアジア人同士でも、問題になったのは、港町のケープタウンやダーバンであった。久しぶりに陸に上がった船員達が飲み屋やクラブに行ってリラックスするのは、自然なことであるが何故か日本人船員と韓国等のアジアの船員同士の乱闘騒ぎになるのである。アジアの船員は店に入れて貰えるところは、限られているのに対して日本の船員は何処でも歓迎されるので、アジアの船員達にとっては、不愉快さや妬みもあり、つまらぬきっかけでグループ同士の乱闘騒ぎとなった。

 1991年のアパルトヘイト制度の廃止と1994年の黒人大統領の誕生で

この様な騒ぎは無くなった事と思うが、日本人にとっても何時もモヤモヤ

した不安と不公平感を持つこと無く過ごせるので、南アの差別の撤廃には

心から拍手を送りたい。

余談だが、差別と云えば、ヨハネスブルグの中心に「ランドクラブ」と云う会員制の高級クラブがあり、英国風のルールで運営されていたが、女性はクラブ内の2階にあるメインホール兼ダイニングルームには、赤絨毯の

階段を使って入室出来なかったり、バーには入れないと云う「英国風の男女の差別」があったが、人種差別の廃止と共に男女の差別も撤廃された

ことと思うが、どうなっているのであろうか。

この国には通算10年も駐在して、多くの友人や知人が居たが今でも元気

でいて欲しいと願っている。