エッセイ集(B) (第4~6話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。・・・・・・・・・・・第3話~第5話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第4話  又、暑い8月がやて来た

8月が来ると70年前の8月15日のことが、昨日のことの様に思い出される。

僕が9才になった時である。いつもの様に午前中から戦争ごっこで遊び回っていた。外に飛び出す前に母親から今日は12時に重要なラジオ放送があるから必ずそれ迄に家に帰って来るようにと厳しい口調で言われた。

午前中からカンカン照りの暑い日であった。僕は目黒区洗足の家の大通りの坂の上でそろそろ昼頃だと気がついて慌てて家に戻った。もう既に両親と姉が玄関口に近い部屋に祀ってある神棚に向って立って居た。正午から玉音放送(天皇の肉声による放送のこと)があると云うことで、神棚に向って放送を聴くことになっていた。

独特な口調で昭和天皇による放送が始まった。意味は充分には分からないが戦争に負けた事を知った。父は泣いていたが母は、口をへの字に閉じて今迄に見たこともない厳しい表情をしていたが泣いて居なかった。これからどうなるのか子供心にも何か恐ろしい事になるのだと非常に不安になった。日本人は全員殺されるかも知れないと子供心に思った。

天皇の敗戦を伝えたラジオの玉音放送から2週間後に連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が東京の厚木飛行場にやって来た。いよいよ最後の時が近づいて来るのかとも思って不安な日々が続いた。

一方、連日のように続いた米軍機による空爆がパタリと無くなり子供心にも安堵の気持ちを抱いた。しかし、全員殺されるかも知れないと云う

恐怖心が次第に薄れたのは米軍からの食糧の配給や大通りを走り過ぎる米軍兵士を乗せたジープからしばしばチョコレートや飴がばら撒かれて来たからである。

鬼畜米英と教えられ敵対心に溢れていた日本の子供達は逆に米軍の車が通ると「ギブミーチョコレート」と物をねだる様になったから不思議なものだ。

一方、小学校の教室では、今までの教科書で軍国的なページや表現を筆で黒く塗りつぶす作業が続いた。墨で消されたページは墨だらけの真っ黒なページが多く、読める箇所が殆ど無いページが目立った。

食糧不足の生活も米軍や連合国からの食糧援助で学校でのお昼の給食も脱脂ミルクやパンや缶詰が出されて不安から感謝に変わって行く様になった。

今の東急目黒線の多摩川駅は可なり大きな遊園地であったが、この施設も進駐軍の施設として接収されていたのか、若い米軍兵士がたむろしていた。駐留軍への警戒心が薄れ、次第に菓子等をねだる様になると、戦後の日本の大人達が欲しくて堪らないのは米軍の愛用しているタバコで、通称「洋もく」と呼ばれていたものを子供達がねだった。父を喜ばそうと云う

思いからだ。

日本の大人達には洋もく1本でも貴重品扱いであったが、1箱でも手にいれたら親の喜ぶ顔が見れるので、子供心でどうしたら箱もと貰えるか工夫したものだ。

多摩川駅の周りには古墳もあり、子供には名も分からない色々な花が咲いており、これ等の花を摘んで花束にして屯している兵士にあげると、数人の兵士が集まって来て匂いを嗅いだりして大声を出して喜んでくれた。兵隊が集まってお互いに鼻を押し付けて花の香りを楽しむ姿など、日本の兵士にはあり得ない光景だったので、米兵や占領軍の行動には、驚いた。

そんな時はタバコでもお菓子でも纏まった量のものを呉れたので、やみ付 きとなり洗足から4駅も離れた多摩川まで徒歩で兵士達に会いに行ったものである。未だ小学生であったが知らぬうちにブロークン英語で話かけていたから驚きである。

小学5,6年生になったら夏休みは、本格的にアルバイトとして皇居周辺のアベックの兵士を相手にアイスキャンデーの押し売りをした。アベック達はいつまでも傍に立ってアイスキャンデーと大声で連呼されると困惑するので、殆ど100%のアベックは仕方なしに2人分を買って我々を追い払った。子供心に商売のコツを覚えていった。 

兄は中学生であったが、小学生の僕が主導権をもって売り歩いたものである。そんな兄も昨年(1918年)多くの思い出を残して、永眠してしまった。兄とは多くの苦楽を共にした仲であったので寂しい。冥福を祈ることしか出来ず残念だ。

 

 

 

 

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第5話  洞窟の中の美女

この話をすると、僕の親しい友人達は、またあの話をしていると苦笑いをするのではと、思うと少し気がしける思いもするが、大切なことと思うので、懲りずに話させてもらいます。

 

今年(2012年)も京都大学の山中 伸弥博士がノーベル生理学・医学賞を受賞して、日本のノーベル賞受賞者の数も1949年の湯川秀樹博士の受賞から始まり、 20名程となり、日本の科学や文化水準の高さも、国際的に認知されて来ているものと喜ばしい限りです。

中でも、1968年に川端康成がノーベル文学賞を受賞した際は、喜ばしい出来事ではあるけれど、雪国や伊豆の踊子などの川端康成の作品が審査の過程で、どの程度、理解されて評価されたのかと大変疑問に感じた。

 文学に関して云えば、日本には平安時代以降から既に世界に誇る多くの文学作品があるが、難解な日本語と日本文化独特の人生観や恋愛観とか美観などは欧米人にとっては、異質な部分も多く国際的な評価の基準では計り知れず、ノーベル賞の対象になるとは思っても居なかっただけに、川端康成の受賞は、驚嘆の喜びであった。

 遅ればしながら後に知ったことだが、川端文学は多くの作品が英文に翻訳されて、国際的に紹介されていたことが受賞の引金になったことに気ずいた。即ち、日本と云う、狭い洞窟から英文翻訳と云う紹介があったから広い世界の舞台に立ち、世界の人からの評価がされたので対象になれたと云うことです。

自然科学や医学の分野では、新しい発見や新技術の研究や開発に関しては、逐次翻訳されて主だった国際的な科学誌にて紹介されるので、見逃される心配は殆んど無いが、人文科学の分野に於いてはその業績が国際的に紹介されていないものが多いのではないかと危惧している。

 要するに、いかに優れた作品や業績も国際的な表舞台で紹介されない限り、埋もれたまま見過ごされてしまうということです。

米国のオバマ大統領は、30年前には米国の民主党内でも無名の政治家

であったが、1984年の民主党の党大会での演説で、その演説の仕方や、

ヴィジョン等でリーダーとして一気に注目されるきっかけとなった様に、無名の洞窟から自から表舞台に出るきっかけを得る人も多く居ます。

 一方、大変な才能を持った人や偉業を遂げた人でも、生前に世に出るきっかけを得ないまま亡くなってしまい、死後にその才能や偉業が発見評価された人も多数おります。文学界では、宮澤賢治、樋口一葉、石川啄木などが該当するでしょう。

浮世絵の写楽の如く、その作品の評価が高まるきっかけとなったのは、

ドイツの美術研究家によるもので、それ迄は埋もれた作品であり、写楽の人物像も未だに明確にはなっていません。

こうして見ると、どんなに優れた作品や商品や業績も狭くて、暗い洞窟の中で埋もれたまま忘れ去られることの無いようにするには、自から進んで、表舞台に出る努力をしないといけないと云う事になります。

その為には、日常からの心がけが大切です。

 仕事上の集りでも友人同士の会合でも、終始黙って居たり、何の提案も質問もしない人は危険信号です。どんなに優れた考えや提案があっても、発表しなければ、結果的には何も考えていない人と同じです。 

そして、良い考えを持っていても行動に起さなければ、これも何も考えていない人と同列になってしまいます。他人の行動を見て、自分も同じことを考えていたと、得意げに話す人が多数いますが、行動を起こした

人との差は、天と地の差が有ります。人の行動の結果を見てからものをいう人を評論家と云います。

 今からでも遅くはありません。洞窟の中から飛び出して明るい太陽の下で、一緒に考えたり行動を起こしましょう。

第6話  京都嵯峨野の念仏寺詣でのご縁

父は30年前、母は20年前に他界した。生前、二人の年中行事として京都嵯峨野の念仏寺をお詣りに23日の京都旅行を欠かさなかった。

両親は戦時中、流産してしまった女児を哀れんで  戦後念仏寺詣でを始めたようだ。

父が他界してからは、兄と姉が母と共に嵯峨野詣でに同行し、母の他界後は僕も加わりそれを受け継いでいる。

次第に分かって来たことがある。両親は嵯峨野詣でを口実に京都旅行を多いに楽しんでいたということだった。京都観光で定番となっている様な中でも、五条の茶碗通りで陶器を漁ったり、祇園で食事をしたり、高桐院で竹林を楽しみながら抹茶を楽しんでいた様だ。両親がお気に入りだったと云う北白川のごく普通の喫茶店に立ち寄り、一休みしながら両親の供養の積りで想い出話をしながら、在りし日の両親の人徳を偲んでいた。

 化野(あだしの)の念仏寺の境内には8千体を数える石仏や石塔が立ち並び、お堂には、この世の光も母親の顔すら見ることもなく露と消えた水子地蔵を祀ってある。

西行法師も「誰とても留まるべきかは「あだし野」の草の葉毎にすがる白露」と人の命のはかなさを詠んでいる。

僕達も今はなき両親にならって、供養のついでに京都旅行を楽しむ様になった。

両親がしばしば訪れた、大徳寺の中の高桐院は何度訪れても心が洗われる。竹林のアプローチは素晴らしく、竹林に囲まれた庭に向って縁側で抹茶を戴く。外国からの友人が京都見学を希望する時は、時間が許せば此の

高桐院にもご案内することにしている。

裏庭には千利休が秀吉の要望した灯篭を撥ね退ける為に意図的に灯篭の頭部を傷ものにして、秀吉には傷物を、献上出来ないという理由でお断りして、それを利休が親しくしていた細川家に贈呈したと云う歴史的に話題となった傷物の灯篭が見られる。その灯篭が細川ガラシャ夫人の墓石となって現しているのも感慨深い。何度訪れても風情とロマンに触れることの出来る空間である。

御室仁和寺の庭にも心が触れ合う。他には見られない美しさがある。 哲学の道を散策したり、嵐山の竹林を散策したり、次第に京都散策の魅力に引き込まれていった。

僕が人工衛星打ち上げ会社の代表取締役になった際、初めて知ったのは、京都府八幡市にある飛行神社である。この神社は日本で初めての飛行原理を発見した愛媛県八幡浜市出身の軍人、二宮忠八によって当初は航空事故の犠牲者を祀る神社として1908年に創建されたと云う。

ライト兄弟がフランスで初の公開飛行をしたのが、1908年、ニューヨークで本格的な公開飛行を行ったのが1909年であるから概ねこの時期と云えよう。

しかし、現在では事故の犠牲者の慰霊に加えて航空機運航やサービスに従事するパイロットやスチューアデスが運航の安全を願う為にもお参りするようになり、僕が勤務していた人工衛星会社(現在のスカパーJSAT)でも同様の趣旨で打ち上げ前と後、計2回打ち上げの成功と成功時の

御礼の意味で会社の関係幹部と共に必ずお参りするのが定例行事となっていた。仕事の関係でも京都との係りがあることに喜びを感じた。僕はJSAT

在任中に3回の打ち上げを経験したので、前後3回、計6回も飛行神社に詣でたことになり、忘れられない行事になった