エッセイ集(C) (第7~9話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。・・・・・・・・・・・第6話~第8話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第6話  早春の天城ーノスタルジア

 早春の天城ーノスタルジア

春の気配を感じる頃になると、青春時代の色々な記憶が甦って来る。

高校時代は大学受験のガリ勉で過ごした反動で大学生になった開放感から勉強以外にもいくつかの事に熱中した。取分け、同好会での社交ダンスと山歩きには可なり熱中した。

山歩きは、本格的な登山ではなく標高1000メートルから2000メートル程度の近県の山々を一泊か日帰りで行ける散策程度。

中でも伊豆の天城山は、何故か心がひかれて月に一度は散策した。週末に急に思い立って出かけたりしてたので、伊豆急バスの車掌ともいつしか顔見知りとなり、こっそりタダ乗りをさせてくれる様になった程である。

通常の山歩きは天城高原の遠笠山から万二郎、万三郎岳を経由して八丁池から天城峠に出るルートである。万三郎岳が標高1400メートルで、天城連峰では最高峰、その他の山は1000メートル前後だから散策には最も適したルートである。何と言っても天城の散策は最高だった。静かな小立ちの山路は、木々がトンネルのように道を覆っていたり、沢もあったり、チョロチョロと流れる渓流にはワサビ畑があったりして僕には最高の癒しの時間帯であった。時には、西伊豆の達磨山から逆コースを楽しんだ。

伊豆半島は鎌倉時代の源氏ゆかりの地であり、源頼朝の弟とその息子の二代将軍、源頼家が幽閉された後、殺害された修善寺の佇まいもお気に入りのお寺で、何故か心が惹かれる。

天城峠は川端康成の伊豆の踊子をイメージするとロマンチックな気分にもなる。僕が大学生になった頃、天城山心中事件が新聞を賑わした。

旧満州国の皇帝の姪で学習院大学生であった愛親覚羅慧生と学友の男子学生が天城山中でピストル心中し、その悲劇が映画にもなった場所である。又、その頃に大型の狩野川台風が伊豆を直撃し、1000人以上の人が犠牲になった悲劇もあり、天城山は、健康的な明るいイメージより、僕にとっては、何かもの悲しいイメージとロマンが折り重なった特別な気分にさせる場所であった。僕の前世での関わり合いがあったのであろうか。そんな天城をこよなく愛した。

ある日、馴染みとなった東海バスの女車掌から彼女の親戚の女学生を紹介された。湯ヶ島の終点のバス停だったと思う。セーラー服の似合う地元の高校3年生のS子で、清純で明るくハキハキした少女で、僕はいっぺんに心を奪われる様な気分の出会いとなった。

それからは、益々天城散策の頻度が多くなった。狩野川台風の被害の爪跡も残る山里のひなびた旅館に泊まり、温泉は、建物を流された温泉場が露天風呂となり、ただで自由にはいれたのは嬉しかった。地元の人も男女混浴のこの野天風呂を自宅の風呂場の様に利用していた。

毎回、湯ヶ島に泊まる様になってからS子はバスの車掌と二人で僕の泊まっている旅館に色々と差入れをしてくれて、夜中までお喋りして楽しい時を過ごした。

S子と二人だけで会える様になったのは、出会いから半年ぐらい経ってからである。勿論プラトニックラブではあったが、二人して山中や草原を子供の様に手をつないで歩き回った。指の長い綺麗な白い手は、いつ迄も離したくないほど柔らかな感触だった。

そんな幸せな時も、長くは続かなかった。僕は社会人となり、週末も忘れて働く商社マンの仕事にどっぷり浸かっており、週末の天城散策の時間はなくなってしまったからである。

ある日、S子から突然、会社に電話があり、東京に住んでいるので会いたいとの連絡であった。嬉しさと懐かしさで、一寸興奮してしまい、早速、その日に会うことにした。四ツ谷の駅で久々に会い、人目を気にせずに手を握って驚いた。白魚の様な綺麗な手がガサガサな手になって、少女の時の感触が信じられない程だった。彼女に何があったのか。

天城の散策の時に欠かさなかった明るさも消え、清純さも見られなかった。何があったのか、どんな苦労があるのかと想うと、可哀想で仕方が無く抱きしめてやりたいほどであった。

食事をしながら、高校卒業後の話をしてくれた。高校卒業後、親戚の紹介で、四ツ谷にある小さな印刷会社に就職して、四ツ谷に住んでいる事を知った。事務職と言っても零細企業の印刷会社で、現場の仕事の手伝いが多く、毎晩遅く迄残業があり、 休む暇もないことを知った。

あの太陽の光を浴びて、草原の中のお姫様のイメージは全く無くなり、どんな苦労があったのか分からないだけに、本当に可愛そうに思えてならず

何とか力になってあげたいと思っても、新米の社会人である僕には大したことも出来ないもどかしさを感じるだけだった。

それから1年後、湯ヶ島から手紙を貰った。都会の生活に憧れて、就職したが体調を壊し、地元の湯ヶ島で両親と一緒にゆっくりと生活することにしたとの報せであった。又、天城に来てくださいと結んであった。

僕は良かったと、思った。野菊は、自然の野原の中で咲いている時が最も美しい。地元から離れないでと祈るばかりだった。理由もなく寂しい気持であったが、これで良いのだと自分に言い聞かせた。

あれから、長いこと天城山を散策する機会に恵まれず、もし湯ヶ島に行く機会があれば、訪ねて見たいと云う気持ちもあるが、それも止めることにした。いつ迄も清純な天城山を散策した時のS子のイメージを壊したくないから

春を待つ、未だ肌寒い季節になると、早春の天城が偲ばれる

 

第7話  若き日の「世界連邦思想」に導かれて

 戦後、歴史的な学生運動の真っ盛りの時代に学生時代を過した僕は、毎日がジレンマの連続であった。経済はマルクス経済学が主流で、左翼的な思想や発言がインテリの象徴の様に、戦後の日本の社会も教育界も日教組や社会主義運動が主導的であった。

世界は米国を中心とする自由主義陣営と対局的にソ連を盟主とする共産主義、社会主義陣営とが対峙し、東西冷戦時代の真っ只中にあった。

高校時代に数学と物理が好きで、成績も特によかったせいか、高校の物理の先生から、大学では原子物理学を専攻してはとのアドバイスもあり、日本で最初のノーベル賞受賞者である京都大学の湯川博士の門下生を夢見て、京都大学を進学の第一志望と決め受験した。

しかし、将来の原子物理学者の夢はもろくも崩れてしまった。入試試験の2~3日前から始まっていた持病の扁桃腺肥大による高熱でいつもの実力を発揮出来ず不合格となり、浪人することになってしまった。その結果、その年の8月に両親の反対を押し切って扁桃腺の摘出手術をして、翌年の大学受験に備えた。

但し、家庭の事情もあり両親の強い意向に従って、地元の東京を離れずに東京の大学を受験する事になってしまった。今迄の経緯で、東京大学も理学部の受験をすることになった。

ところが、扁桃腺を摘出して扁桃腺がない筈なのに試験日の可なり前の日から高熱が出てパニックになり、東大受験は理学部志望をやめて行く気もない文学部志望に変えてしまった。

合格の通知を受けとったら行く気の無かった文学部への入学を決めてしまった。

原子物理学とは180度違う文学部への道を選ぶ結果となってしまったが、湯川博士への憧れは、全く違った形で引き継がれる事になった。

博士の主唱していた「世界連邦樹立」の夢である。太平洋戦争で、世界で始めての原爆被害国になった、日本としてはこの地球上から戦争を無くす為には、世界を一つの連邦国家として統合し、国家間の戦争や紛争を無くすと云う思想で、湯川博士はアインシュタイン博士等原子物理者達と共に世界連邦樹立運動に参画していたからである。アインシュタインは、

自分の 発表した「相対性理論」によって、原爆の開発に加担した事になり、その原爆被害を世界で初めて被った日本への謝罪の気持を持っていたと云う。アインシュタイン博士自身もユダヤ人で、ナチスドイツからの被害者である事から、将来、核戦争によって人類の滅亡に至らぬ様にする為に、世界連邦を樹立し、世界を一つにする運動を開始し、湯川博士もこの運動に加わった経緯が見られる。

夢多き僕は、尊敬する湯川博士の世界連邦樹立思想と運動に啓発された。資本主義と社会主義の狭間で東西が二手に別れて争う事は、再び世界大戦を引き起こす畏れがあると考えていた。あの過酷な第二次世界大戦の時代を幼児期から小学校低学年迄過ごした経験から、二度と戦争の無い世界を夢見て、地球全体を1つの連邦国家にすれば良いのだと考えを持っていた。

僕の第一志望の大学が京都大学の湯川博士の元で勉強したいと考えたのは、高校時代に物理が得意科目であったことだけではなく、実は湯川博士の世界連邦思想にも合わせて強い影響があった。

しかし、世界連邦をつくる為には、世界の大多数を占める黄色人種や黒人が白人達の深層心理に深く根づいている有色人種蔑視を無くさせる為には、有色人種の代表として先ず、アジアが一つにまとまって欧米と対等に議論をし行動できる体制を整えることが先決だと考えた。先ず米州と欧州とアジアの三州が世界連邦の推進母体の核になる事だと考えた。

しかし、アジアが一つにまとまる事は中国と云う共産主義国で、しかも中華思想に固まった国と心から一体になるのは、極めて至難なことだと、常に悩んでいた。さりとて、第二次世界大戦後のアジア諸国の反日感情を思うと日本がその推進役を担う事は、現実的でないと考えた若僧の僕は、中国に次ぐアジアの大国の一つであるインドネシアに白羽の矢を立てた。

当時のインドネシアはスカルノ大統領がアジアでは、カリスマ的存在であったので、スカルノ大統領にアジア統一の夢を託そうと考え、196512月に僕は単独で、行動を起した。

この年に日本の“第6次見本市船のさくら丸”で、官民合同の7人の侍となって日本青年経済使節団員としてジャカルタを訪問することになった時である。レセプションパーティーでスカルノ大統領が歓迎の挨拶をされる際に、手渡そうとした熱烈な手紙を桐の箱に収め、機会を窺っていた。しかし、多数の参列者の見守る中で、日本の一青年が個人的に何の前触れもなく、列席者の前に飛び出すのは、まずいと思い一瞬止まった。

その翌日、単独で お目にかかれる段取りとなっていたスカルノ大統領第三夫人のデビー夫人経由、ヤスオ宮殿にて無事この手紙を託す事が出来た。

アジアが欧米と肩を並べて世界連邦を形成するには、まずアジア諸国が各国の主義、主張を超えて一本にまとまる事が必須と考えていたからである。しかし、アジアが一つになると云う事は極めて至難な事だと、年を重ねるにつれ痛感している。世界連邦樹立の前段階として、アジアが一つにならなければ、いつまで経ってもアジアは、政治的には欧米の脇役に終わってしまうと思って居る。 本来であれば、中国がアジアの盟主として、日本やインド、パキスタンと共に結集すれば、アジア連邦として欧米と対等な立場で世界連邦がより早く実現すると思っているが、中国は共産主義の一党独裁国家でしかも太古の時代から単独で世界を一つにすると云う中華思想をもっていることが大障害と考えた。さりとて第2次世界大戦において、アジア諸国に大変迷惑をかけた日本がリーダーシップを取れば誤解や反発を受けると考えていた。

それではインドネシアのスカルノ大統領はどうかと、若僧の僕は考えるように成ってしまった。僕がジャカルタを訪問した1965 年は、インドネシアにとっては、930 事件と云われる、大惨事となった「赤狩り」が行われた政変の年となっていた。

インドネシアの政局は、この年を境にして、間もなくスカルノ大統領が政権を奪われ、スハルト政権が登場する事になるとは、若輩の僕にとっては、想像もつかぬ事であった。

真相は専門家の解説にお任せするとして、若僧の僕が口コミで得た情報によると、当時のスカルノ政権のスバンドリオ外務大臣が中国寄りの共産主義者で、彼が中心となり、共産主義者の結集を図り、スカルノ大統領を押し立ててインドネシアに共産革命を起こそうと

企画したと云う。その始めの行動として、革命の邪魔になると思われた当時の軍隊の最高権力者であるナスチオン元帥を暗殺しようと考え、ナスチオン元帥の自宅に反乱軍を派遣し襲撃した。間一髪のところでナスチオン元帥は逃げる事が出来たが、彼の家族は全員自宅で反乱軍によって殺されてしまったと云う。この事実を目の当たりにしたナスチオンの怒りは頂点に達し、全軍を動員して共産主義者を全員逮捕し、殺害しジャカルタの市内を流れるソロ川は無数の死体と血の色で真っ赤に染まったと云う。

この一連の事件は1965年9月30日の騒動で、現在でも「930事件」とよばれている。そして共産革命の後ろ盾にスカルノ大統領がいるとの噂があり、この事件の2年後にスカルノ大統領も失脚した。スカルノの後には、ナスチオン元帥の配下の軍人スハルトが大統領となった。

僕が第6次さくら丸でジャカルタを訪問したのは、その年の12月で、青年経済使節団と云えども、船から上陸する際の手荷物検査は未だ厳しかった。

上陸後驚いたことには、多くの学校の校庭には櫓が立ててあり、そこには人形が絞首刑で吊るされておりギョッとした。関係者の説明では、その人形は共産主義者のスバンドリオ外相を模した人形で、私達は共産主義者でないということをアッピールしている事を知った。特に中国系の学校の校庭には例外なくこの人形があった。       

世界連邦樹立は、やはり、永遠に見果てぬ夢か?  情熱を燃やした若き日の思い出と、冷や汗に終わってしまうのか。

第8話  目賀田ダンスとの出会い

 僕の学生時代は左翼思想がインテリ学生の常識の様な風潮があり、学生運動も最も盛んなた。平和運動、文化運動、反核運動と共に合唱をベースとした歌声運動が盛んとなり、喫茶店では見知らぬ学生同志で肩を組んで労働歌やロシヤ民謡を合唱するのがお馴染みの光景となっていた。

そんな時代に大学のクラブ活動として、ESS(英会話同好会)やダンス同好会に所属していると、異端な目で見られたり、ノンポリ扱いされたりして少々肩身の狭い思いをすることもあった。

ある日、タンゴ通の親しい友人の紹介で日本のダンス界にフランス流のダンスとアルゼンチンタンゴを導入し、ダンス界の草分けとなった目賀田綱美男爵からダンスの指導を受けることになった。僕が大学3年生の時である。

バロン目賀田は幕末の英雄、勝海舟のお孫さんで、ご自宅が文京区の白山上にあり、東大の本郷キャンパスから徒歩で10分程度の近さにあったので、可なり頻繁にご自宅に立寄らさせて戴いた。男爵のご自宅を訪問する楽しみはダンスの他にもう一つあった。

それは、男爵邸には毎日、紀伊国屋から出来たてのイギリスパンとチーズが届けられており、そのパンとチーズがホームバーのカウンターに無造作に置かれており、自由に食べてよかったので、ダンスよりこちらの魅力の方が強かった。

目賀田邸のダンスフロアには大型の英国製輸入サウンドスピーカーがフロアの両角にドンと備わり、当時のアナログプレイヤーはヘッドシェル、アーム、カートリッジ等々、世界の一流メーカーから取り寄せたコンポーネントの粋を集めたもので、男爵の自慢のプレイヤーだった。

フランス流のタンゴは別名、宮廷タンゴとも云われる摺り足の静かなステップで、華やかさはないが独特の色気を漂わせるように思えた。

目賀田ダンスではルンバ、サルサ、ミロンガ、パサドブル等々ラテン系の楽しいダンスは教えて貰えたが、何故か当時流行のジルバは踊ることを許されなかった。

兎に角、目賀田邸では僕にとっては珍しい物との出逢いや、男爵からの面白い話やフランス遊学中の色っぽい話が聞けたり、出来たてのパンやチーズが勝手に食べることが出来たので、楽しかった。しかし、ダンスは一向に上達しなかった。本郷のキャンパスから近かったので、何時も一番乗りのせいか男爵からは、何やかやと目をかけて戴いた。

ある日、新宿のコマ劇場で、ダンスの競技会があるので、君もいらっしゃいと云われ、コマ劇場まで出かけて行った。目賀田男爵は、広いフロアが見下ろせるステージの審査員長の席に座って居り、僕を見つけるなり、驚いたことに手招きされて男爵の隣リの席に座らされてしまった。

華やかな競技会が始まり、出場者はパートナーと共に次から次と審査員長の前に進み出て、大きなジェスチャーで深々と頭を下げて挨拶をした。

その内のあるペアが、深々と挨拶された時、男爵は突然僕に向かって、あれは有名なN君だよと教えてくれた。当時、Nダンススタジオを経営されていたダンス界の大物、N先生のペアだと知った。目賀田男爵は小声で、N君はダンスをショウダンスにしていると不満そうに教えてくれた。そう云えば、目賀田ダンスには華やかさはなく、タンゴのステップもブルースを踊っているかのように淡々と寄り添って踊るスタイルで、ショウ的な動きはなく、2人でダンスをしっとりと楽しむ風に思えた。

思えば、男爵がパリに遊学していた1920年代のフランスは既に社会的には成熟して居り、パリ市内ではアパート住まいが普通で、大きなステップや大きな音を立てる英国風のソーシャルダンスはアパートの住人としてはマナー違反だったのかも知れない。

ダンスはショウでない、2人で楽しむものと云うソーシャルダンスの基本的な考えは、男爵の生活や生き方にも一貫しているように思えた。

男爵は生涯、独身で過されたが、女性嫌いではなく多分、人も羨む様な素晴らしい人生のパートナーがいた様に思える。僕にとっては若干、謎めいた一面でもあった。

僕が商社マンとなって、南アのヨハネスブルクに海外駐在員として赴任した年に、男爵はその華麗にして粋な人生の終焉を迎えたので、葬儀には参列することが出来なかったが、男爵に最後の死水を取ったのは、やはり、粋で素晴らしい美人の生涯パートナーだったと聞いている。

最近になって、何かの話題で、僕が目賀田男爵から直接ダンスの指導を受けたことを知った在る知人が、大変な驚き様で、僕がダンスの大先生だと勘違いをしてしまった。

確かに今の日本のダンス界の現役大御所で、目賀田ダンスの流れを受け継ぐ先生がいたとしても、直接指導を受けた人は少ないのではないかと思う。

今となっては、ダンスのステップも全て忘れてしまい、もう踊る場所も、機会も、パートナーもいないので、諦めているが、あの時の自分に戻れたらと見果てぬ夢を見ている。ホテル大倉のエメラルドルームのグランドピアノからは、マーサ三宅が演奏する何時もゆったりとしたムーディなジャズが流れ、ダンスを楽しんだ夢多き若き日のシーンが、休日の朝になると頭の中を巡り始める。