エッセイ集(D) (第10~12話

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。・・・・・・・・・・・第9話~第11話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第10話 銀座のチーママ志乃さん

大分、昔の話で恐縮ですが、第二次世界大戦に負けた日本が荒廃した国土を復興する爲にも無資源国、日本の生きる道は海外から原料を輸入し、付加価値を高めてからその製品を輸出すると云う「加工貿易」を国是としていた。

資源やエネルギーの乏しい日本に取っては当然の選択であった。

 僕が社会人となった1960年代は、そんな環境下にあったので、輸出担当の商社マンは国士の様な使命感とプライドを持って輸出商談で世界中を飛びまわっていた。商社マンは海外を飛び回るばかりでなく、海外からの商談相手を来日の際にしっかりとアテンドして、接待もしながら商談を少しでも有利に展開する為の情報の交換も重要な仕事であった。

その活躍の場として、料亭と共に赤坂や銀座のナイトクラブが繁盛していた。赤坂には、ステージショウを楽しませた「ミカド」やコパカバーナ、ラテンコータ、エルモロッコ、ニューラテンコーター等々の高級ナイトクラブがあり、銀座にもモンテカルロ、クラウン等のクラブがあり、輸出先の外国人や日本の重要取引先の人を接待する場として頻繁に活用した。

 若い商社マンの僕は、もっぱら銀座のナイトクラブを活用した。殆ど毎日のように接待が続いたので、チーママ達も色々と特別な配慮をしてくれる様になっていた。外国人を連れて行く時は、英語の話せるホステスを待機させて、僕が外人の相手に疲れたりするのに気付くと、そっと英語の話せるホステスを呼んで、外人客の相手をさせ、僕がしばらくリラックス出来る様な心憎い配慮をしてくれるのである。そんなチーママには感謝の気持で毎回、指名するのは当然の成り行きだ。

 30代になって、海外駐在員となり、日本での接待の日々から解放された。しかし、海外でも、現地の重要取引先の幹部や日本からの出張者等々を自宅に招いて殆んど毎日のように接待パーティーが続いた。外国人には鉄板焼きやしゃぶしゃぶの様な日本食が歓迎され、日本からのお客さんには、おでんパーティーや手巻き寿司等が喜ばれた。日本からのお客さんの中には、日本を代表する様な大企業の社長や役員等も多数おられ、僕の人脈は、お陰様で数年の海外駐在のお陰で革命的に拡がった。特に日本からのプラントや重機械輸出担当であったので日本のメーカー各社にとっても、全社を挙げての重大案件のものが多く、若僧の僕にでも大変に気を使って頂き、恐縮するほどであった。

 特に何十億、何百億円と云う様な大型案件を成約し、日本の新聞にでも報道される規模のものになると、若僧の僕も英雄気分にさせる様な対応となった。

 5年後に第一回目の海外駐在を終えて、帰国したのは1973年の暮れであった。帰国早々、一部上場の一流企業の有名社長がなんと、同社の

製品を大量に輸出したお礼の積りか直接若僧の僕を築地の料亭に一対一でご招待頂いたのには、さすがの僕もびっくり仰天であった。

身に余るご招待を頂いた若僧の僕でも、日本を代表する商社マンとしてそのまま返礼もしないのは男の恥だと浅はかな考えが湧き起り、その日に駐在前に通い慣れた銀座のナイトクラブにご案内することになった。

ナイトクラブに着くなり、昔からの馴染みのチーママを指名したら、2年ほど前に辞めたと知らされて、僕はたちまちパニックに陥ってしまった。そのチーママ以外に知った人も居らず、大事なお客さんの前で戸惑い、格好の悪い結果になりそうになったその時、前からの馴染みの様な笑顔で、歓迎し、案内してくれたのがチーママの志乃さんだった。勿論、僕にとっては初対面であったが、大事なお客さんの前で僕に恥をかけさせまいとの心憎い配慮のお陰で、その場を無事切り抜ける事が出来たので感謝、感謝であった。

志乃さんは、そのクラブNo.1のチーママだと知るまで時間はかからなかった。食後のブランデーとして、レミーマルタンのハーフボトルを頼み、チーママの楽しい話題にも助けられ、大社長への返礼も無事済ます事が出来た。若僧の男の面目も一応立ち、その日は僕も満足して帰宅した。

しかし、一週間後にクラブからの請求書を受取って仰天した。30分程度の短い時間に食後のブランデーを一杯したためただけなのに、13万円の請求額であったからである。5年間日本を留守にしていたとはいえ、何時もの倍の請求額であったので、直ぐにチーママの志乃さんに電話をして、物凄い勢いでクレームをし、請求額を訂正して貰おうとした。志乃さんは、即座にご免なさいと泣き出しそうな声で応え、彼女の配慮が足らず、説明不足が原因で、ご迷惑をかけてしまったと、心から謝罪した。当日は12月のクリスマスシーズンで、値段がクリスマス価格となって通常の2倍となっていることを、帰国早々の浦島太郎の僕に知らせる事を怠った事が、いけなかったと反省しつつ何度も謝罪した。しかし、請求額は変えられないと云う事で、止むなく僕もそれ以上のネゴは、彼女には無理と判断して諦めた。

仕方なく、会社での経理処理を何とか苦労して切り抜ける事で一件落着する事が出来た。

僕はそんな事件のほとぼりも覚め、その事件から数ヶ月も経った頃、いつもの様に外国からのお客を連れて、その銀座のクラブに出かけて行った。何時もの様に接待とは云え、お互いに楽しく歓談をしている時に、僕の席に頼みもしないレミーマルタンの入ったグラスが置いてある事に気ずいた。

テーブルのホステス嬢に、こんな物は注文してないと云って取下げる様に云ったら、そのホステス嬢は、これは志乃ママからの差入れですと云って、取り下げなかった。

暫くして、志乃さんがそっと席に加わり、ご免なさいと云う目配せで

皆んなとの歓談に何食わぬ顔をして加わった。

それから数年、僕がそのクラブに行く時は必ず僕の席にだけ、サービスのレミーマルタンの差入れが、一回も欠かす事なく続いた。志乃さんの僕への謝罪の気持が込められている事を知った。

その後志乃さんは、年取った母親の面倒を看る為にクラブを辞め、昼間の仕事に切り替えた。赤坂の一ツ木通りで小さなマージャン屋を始めた。

赤阪界隈のサラリーマン相手の慎しみやかな商売への転向だった。マージャン屋だが、軽い食事を小さなカウンターの中で自分で料理をして出していた。志乃さんらしいサービスである。

僕も時たま志乃さんへのささやかな応援の気持で、仲間を連れてマージャンをする事があった。その時は僕のテーブル全員に小振りの汁そばがサービスで付いて来た。志乃さんの髪にも驚くほど白いものが増えて、銀座時代のきりりとした黒髪のママの姿は想像出来なくなっていた。数年後、何時の間にか、志乃さんのマージャン屋の看板が消えていた。

風の便りによると、母一人、子一人で苦労して二人きりで生きて来た志乃さんは、お母さんが亡くなってから、一週間後に、お母さんの後を追う様に亡くなったと聞いた。貧しくても精一杯生きて来た志乃さんに大きな拍手を送りたい。 心からのご冥福を祈っている。

第11話 若き尖兵アメリカ大陸へ初挑戦

若き尖兵アメリカ大陸へ初挑戦

 

春は新社会人が一斉に各職場で、夫々の夢を抱いて人生の新たなスタートを切る季節です。先輩の一人として、皆さんに心からの声援をお送りします。

僕も大学卒業後、多くの夢と可能性を秘めて、就職か起業かと多いに悩みましたが、結局は無難な商社マンの道を選びました。商社マンとしての最初の配属は社長室企画課でした。

僕が社会人になった1960年頃は、無資源国の日本はその輸入資金を確保する為 に輸出振興が国是でした。熱血漢であった僕は、何時までも社長室と云う後方部隊ではなく、前線部隊である営業で輸出の仕事に携わりたいと思う様になりました。

入社してから5年が経った頃、上司と社長にお願いして、営業部門の重機械輸出担当に配転させて頂きました。最初の担当商品は製鉄所で製造する鉄板や鋼材をインゴットと云う灼熱の半製品から板状の鋼板や鉄骨となる型鋼に圧延する際に使われる圧延ロールの輸出でした。この種の製鉄機械の技術は殆んど米国やドイツが特許権やノウハウを持っていた為に、欧米への製鉄機械の輸出は価格が安くても輸出出来ないものが多かった為に、鉄鋼製品の輸出は出来ても製鉄機械やプラントの輸出は欧米にロイヤリティーを払っても輸出出来ない時代でした。

 しかし、戦後の日本は復興と共に製鉄技術や製鉄の操業技術の進歩は目覚ましく、1960年頃には、日本の製鉄技術は既に先輩格の米国の水準を超えていました。

1964年の東京オリンピックから3年後、僕は日本のロールメーカーのカタログと日頃から日本の主要製鉄所の技術者から聞き出していたロール交換と研削の操業ノウハウを詳細にメモしておいた分厚いノートを抱えて米国に殴り込みをかけました。世界最大の製鉄所が集中している五大湖周辺を行脚することになりました。

 米国への第一歩はサンフランシスコでした。僕にとっては始めての米国訪問でしたので、驚きと物珍しさの連続でした。先ずはサンフランシスコ空港のイエローキャブの大きさに驚き、カラフルな住宅街の家並みに好奇心と異文化を感じました。

ゴールデンブリッジ迄の坂道を歩きながら夏と冬が共存している不思議な光景を目にしました。ダウンタウンでは半袖姿の人と毛皮のコートを羽織っている人が入り混じって行きかっており、多民族社会と自由なアメリカを感じた光景でした。

シスコからピッツバーグへ移動し、様相は一変し、市内は煤で黒ずんでおり旧式な路面電車が走って居ました。

ここが、僕の米国出張の目標地でしたので、殆んどの製鉄所を精力的に軒並み訪問し、圧延ロールの売込みをしました。どこの製鉄所も最初は形式的な対応でしたが、米国と同じロールの寿命が日本製のものが50パーセント以上も長いことを、データと共に伝えた時点で、彼等の対応がガラリと変わりました。

僕の宝物のメモ帳に密かに記録しておいた日本の大手製鉄所のロールを長持ちさせる操業ノウハウがびっしりと書かれ、複数の圧延スタンド(タンデムスタンド)の配置にロールをどのタイミングでどの様に交換して行くのか僕の手描きで詳細に記録されていました。これ等は製鉄所各社のノウハウに属すのですが、全て、現場の技術者から丹念に聞き出してメモしたものでした。又、ロールの表面が粗くなる前に、どのタイミングでどの程度研削するのかと云うキメの細かい研磨のノウハウも

耳学問で記録していた為に、米国の殆んどの技術者達は、僕をベテランの技術者だと錯覚して色々な難しい質問をされ、その対応に苦慮した程でした。

その努力と情熱の甲斐あって,遂に先輩格の米国の大製鉄所から6000万円のロールの注文を取ることに成功しました。僕の米国市場への初陣は大型圧延ロールの初受注となり大成功となりました。初輸出の金額は少額なものでしたが、この経験と情熱が、その後の僕の何十億、何百億となる製鉄プラント輸出の引き金となって行きました。

説教じみた事を云う様ですが、国を思い、会社や仲間の事を思う情熱や使命感が自分にも、とてつもなく大きな力と智慧と行動力を与えてくれる事を心に留めて頂ければと思います。

第12話 葉巻のダビドフとの出会いそして訣別

あ葉巻のダビドフとの出会いそして訣別

 秋になると色々な昔の出来事や懐しい人の事などが何の脈略もなく突然思い出され、想いに耽り悲しくなったり、ロマンチックな気分になったりする。

 僕が禁煙したのは今から27年前、シンガポール勤務の時である。若い時から紙巻きタバコをやめて葉巻とパイプ煙草のみに転向してしまった。葉巻との出合いは、まだ33才になったばかりの若僧の時である。

商社マンであったので海外出張は20代から頻繁に出かけていたが、海外駐在を命ぜられたのは33才の時で、アパルトヘイトで悪名をはせていた南アフリカの商都、ヨハネスブルクであった。当時の南アは、船舶、鉄道車両、製鉄プラント、鉱山機械、化学プラント等々の大型商談が最も多く、日本の大手商社のみならず主要各国からも、やり手の社員が送り込まれていた。僕がヨハネスブルグの空港に降り立った時、僕を空港で出迎えてくれた先輩は、日本の商社業界では知らない人のいない程の快活なキャラクターの先輩であった。日本から赴任したその日の夕刻、その先輩が郊外の中華料理店にて歓迎を兼ねて仕事の打合せを始めた。ヨハネスブルクは高地で空気も薄く旅の疲れもあって、朦朧としながら食事を終えて直ぐ、彼は葉巻を取出し旨そうに喫い始めた。

彼は礼儀としてか葉巻の経験のない若い僕にも1本どうかと勧めてくれた。これが僕と葉巻の本格的な出合いとなってしまった。始めての葉巻だが、リッチな中華料理を食べた後のタイミングに合致したのか葉巻が

これ程旨いとは想像もして居なかった程の発見となった。これを境に、僕は若くして葉巻党になってしまった。オランダの葉巻はハバナの葉巻に比べたら極めてマイルドな味であったのが、初心者でも馴染み易いことで

あったと思う。オランダでも庶民的なブランドの葉巻で、「レトミンスタージュニア」と云う毎日4,5本喫っても負担にならない手頃な値段だ。葉巻の味わいはその日の体調とか気分によっても異なるがその土地の気候とも深い関わり合いがある様に思う。とにかく始めての葉巻は満腹の後の僕を虜にしてしまった。その後、振り返って思うと、オランダの庶民的なこの葉巻に感激してしまったのが滑稽にすら思える程、僕の味覚はエスカレートしてしまった。同じブランドの葉巻でもより太巻のものの味を覚えてしまうと、もう後に戻れなくなるから不思議だ。南アは当初オランダの植民地であったが、その後の「アングロ・ボア戦争」で英国の植民地となった歴史的な背景からイギリスの文化も混入している。その当時、欧州の宗教戦争でフランス人やイタリア人も欧州から流入してきているので、欧州文化が幅広く入り込んでいるのである。そんな訳で、南アの商業都市、ヨハネスブルクでは各国の葉巻が極めて安く容易に手に入ったので、より旨い葉巻を求めて味覚もより贅沢な味わいを求めてエスカレートしてしまった。しかも英国の葉巻チャーチルとかスイスの太い両切りの葉巻など

極めて安く手に入り、生意気にも若僧の僕の味覚はどんどんエスカレートして、最後に辿り着いたのは、おなじみのハバナであった。

ハバナ葉巻と云えば、コヒバ、ロメオ&ジュリエット、モンテクリスト、モンテレイなどがあり、どれも独特なハバナ葉巻の味合いを持っているが、今ではドミニカ産となっているダビドフが終着駅となった。

ハバナ葉巻のロールスロイスと云われた葉巻で、以来禁煙する迄ダビドフ一筋となってしまった。ダビドフ党になって困ったことと云えば、値段である。1本当りの価格が日本では平均、1,0002,000円であるから、1日に2本もすったたら数千円が葉巻代として煙と消えてしまうから大変である。海外で生活しているのであれば、なんとかやり繰り出来るが、日本での生活費では無理である。それを喫いつづけて来たのだから我ながら驚きだ。

しかし、これだけ愛煙して来たダビドフとも決別の時が来た。値段の問題が主因ではなく、シンガポールに駐在した時が訣別の時となった。シンガポールと云えば、「Fine Country」と云われる程の罰金制度で公衆道徳をコントロールしている罰金大国で、路上にツバをしても罰金、横断歩道でないところを横切っても罰金、路上やレストランで喫煙したら多額の罰金が課せられたのが、禁煙への引き金となり、晴れてダビドフとの訣別の時が来たのである。今となったら、当時のリークアンユー首相に感謝と云うことになるのであろうか。

当時は、日常から葉巻を吸っているサラリーマンは極めて稀だが、金持ちでもないのに変ね嗜好品に取りつかれたものだと、嘆く一方、このハバナの葉巻の味を本当に分かって喫煙している人は何人居るだろうかと、変なプライド持ったものである。