エッセイ集(F) (第16~18話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。

・・・・・・・・・・・第19話~21話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第16話「チチンプイプイ」は、母の魔法の言葉

僕がこの世に生を受け、もの心がついてから最初に母親から かけられた魔法の言葉は「チチンプイプイ」と云うおまじないの言葉だ。                    僕が幼児の頃、家の出窓から身を乗り出し過ぎて、庭先に転げ落ち、 頭にたんこぶを つくって大 泣きしている時も、「チチンプイプイ  」 「チチンプ イプイ」  「痛いの飛んでいけ」と魔法のおまじないの言葉を繰り返し、僕の頭を優しく何度もなぜてくれると、アラ不思議、痛さが無くなってしまったものだ。

利かん坊で腕白な僕は生傷が絶えなかったので、この母親の摩法の言葉に何回も助けられた。当時は戦時中でもあったので、友達との遊びは戦争ごっことか、肉弾戦とか云う様な荒っぽい遊びが多かった。

 小学高学年になると、さすがにこの赤ちゃん向の魔法の言葉は耳にしなくなった。

 そんなある日、僕は裏庭にある椎の木に登り、いつもの様に、近所の腕白小僧と太い枝に跨がり、椎の実を採っては食べ、食べカスの実の殻を地面に投げ捨てていた。椎の実は硬い表皮の中に白い身が、確りと詰まって居り、うっすらと甘くて好物であったので、夢中になって食べているうちに、足を滑らしドスンと地面に落ちてどうやら頭を打ったらしく不覚にも気を失ってしまった。

その時の記憶はさだかで無いが母親が近所のかかりつけの町医者に向って急いでいたのであろう。母親の背中に負ぶさり、「大丈夫だから、お母さんの背中にしっかり掴まっていてね」と、云う言葉が途切れとぎれ聞えていた。幼少の時の「チチンプイプイ  」の魔法の言葉を聞いている気持が蘇って来た。

大学を卒業し社会人になり、仕事に情熱を燃やしている頃、プライベートでも多くの女性とのお付き合いも忙しかった。学生時代からのダンスやJAZZやタンゴ、そして伊豆の山々の散策など公私ともに忙しく活動的であった。

そんな青春時代の真っ只中で、5~6才年下の女子大生と頻繁にデートを重ねていた。  社会人と云っても僕は20代の頃だから、その年下の彼女は子供のように無邪気に思えた。それが僕にとっては堪らない程の魅力であった。彼女は、年上の僕の名前を呼びすてにしたり、電車の中でも人目をはばからず甘えてみたり、彼女の家では可愛いエプロン姿で手料理の腕をふるったり、両親の前でも気兼ねせずにピタリと僕に身を寄せて猫が戯れる様に、僕の鼻を触ったり、僕が彼女の両親と話をしていると、両親との話をはやく終わらせようと、僕の口を塞いだり子供の様な ユニークな女の子であった。研究職の父親も僕の大学の大先輩と云うこともり二人を家族同様に、暖かく見守ってくれた。彼女が大学を卒業し社会人になった頃、僕は彼女との結婚を心に決めていた。

プロポーズを直前に起きた或る事件が引き金となり、2人の関係があやふくなり、大好きな彼女との結婚を諦め様と毎日悩み続けていた頃、実家に立ち寄る機会があり、久しぶりに家族と夕食をした。 その際、母親はいつもと違う僕の様子を素早く察知したのだろう。

非常に落ち込んでいる僕の隣に近づき詰問でもする様に「何があったの? 身体でも悪いの? 会社のこと? ね~お母さんに教えて!」と成人して立派な社会人となっている僕に向かって幼児にでも話かける口調で真剣に問いかけてきた。

勿論、僕は人に話す気はないので、ただ首を振って口を閉ざしていた。そんな姿を見て、益々ただ事でないと判断したのだろう、母親は更に大きな声で「ね~、何があったの? 教えて? お母さんにだけは教えて!」と云われた途端に僕は不覚にも大粒の涙を流してしまった。

滅多に涙なんか見せることのない社会人の息子が涙を流すのを母親が見てしまった。

その瞬間に50代半ばを過ぎてる母親も訳も分からないまま大粒の涙を流していた。幼児をいたわる様に社会人の僕の背中を優しく摩りながら、「大丈夫よ、大丈夫よ、貴方は何時もどんなことも克服してきたのだから。大丈夫よ」と呟きながら、僕の背中をさすり続けた。

気も落ち着いた頃、武蔵小杉にある会社の独身寮に帰る為に洗足の実家を後にした。

玄関口で心配そうに見送っている母親の口から「チチンプイ、プイ」、「チチンプイ、プイ」と云う魔法の言葉が後を追って来る様な気がした。

子供が幾つになっても、母親にとって子供は子供のままなのだと、思いつつ母親の愛を改めて強く感じた。その母も20年前に他界し今はいない。 

 

 

 

 

 

 

第17話 地上の人は先祖を辿れば全員親戚だよ!

 

父さんと母さんが愛しあって、僕が出来た、でも不思議だ!

若し、父さんが他の女性と愛しあっていたら、今の僕はいない筈だ。

父さんは20億人の中の他の女性と愛し合う可能性も在った筈だな。

そうすると僕は20億分の1の可能性で生れて来たのかな?

いや待てよ、母さんも20億人の他の男性を愛する可能性が在った筈だ。

そうすると僕が今いる可能性は20億分の1X20億分の1の確率だったかな?

いや違うな、母さんと父さんは何年間、愛し合っていたのかな?

そうすると、その何年間の何億秒のほんの一瞬の時が無かったら僕ではなく僕以外の別の子が生れていたわけか。いや、そんな単純じゃないぞ!

父さんの精子と母さんの卵子がその時、何百万もうごめいていた

とするとまた何十億分の1の可能性で、僕が出来たわけだ。

更に大奇跡と思えることは、父さんが石器時代に、母さんが江戸時代に、生れていたら、今の僕はいなかったな。

そうだ、父さんは僕の生まれた昭和の年に50億分の1の可能性で、その時代にいたのか、母さんも同じだとすると、又、その掛け算で奇跡的に

同じ時期に一緒に生きていたと言う訳だ。

いやそんな単純な計算ではないぞ、あー、もう分からなく成って来た。 

兎に角、僕は気の遠くなるほどの可能性で、偶然に、奇跡的にこの地球上に”生”を受けていると言うことだけは、確かだ。

いや大変だ、僕の目の前にいる君も気の遠くなるほどの可能性と偶然と奇跡でこの地球上に今、”生”を受けていると言うことだ。

その奇跡的に今生きている僕と、その奇跡的に今、生きている君とがここで向かいあっているのだ   

奇跡 X 奇跡 X 奇跡 X ・・・・・・・だぞ!!!あーなんとすごいことだ、 あーなんと素晴らしいことだ!!!        

         

人間万歳!、  僕 万歳!、  君 万歳!

 

・・・・・・・ 中学2年生の作文から・・・・・・・

第18話 来世でも「実業の世界」で再挑戦

少年時代には、全く他人事のように捉えていた鴨長明の方丈記が、今ほど実感をもって理解できることはない。流れに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて留まることはない。

人間は誰しも年を取り何時かはこの世とお別れする時が来る。分かっていても日々の生活を全く実感のないままに過ごして来た。若さゆえの驕りと一時の錯覚に過ぎなかったことを噛みしめている。急速に老いてゆく自分の姿が鏡の中で冷酷に伝えている。地上の全ての「生物」もしかりだ。

先日、仲の良い友人達と会食しながら他愛もない話をしている時、今度、生まれ変わったらどんな職業に就きたいかとの話題になった。考えても無かった意外な質問を契機に、自分なりに気持ちを正してみた。その結果、大学受験で叶わなかった京都大学の物理学科に再挑戦して、その延長戦での仕事を選ぶだろうと受験時代の無念が直ぐに浮かび上がった。

模擬試験での成績も背景にあり大いなる自信もありながら、扁桃腺肥大の生まれながらの持病が原因で東京から京都への東海道線内で既に40度の高熱にうなされながらの受験となり、力を出し切れなかった無念さが今でも直ぐに脳裏を横切る。又、言い訳と思われるのも自尊心が許さなかったので、思い切って手術をしてこの悩みから解放されたいと決心した。勿論、成人してからの扁桃腺摘出手術は危険との説も聞いていたが死んでも手術することを強く願った。これを機会に社会人になってからの自分の人生を顧みた。

僕は海外生活が合計13年、海外出張は数えるのが難しいほど異常に多かった.共産圏以外の国々を中心に殆ど全世界を訪問している。東西冷戦の時代にいたからだ。

1983年に日本能率協会から出版された拙書「サバイバル日本商社」で商社マン時代の活躍の断面が紹介されているが、それ以外の大掛かりな場面は差支えもあることを配慮して、何も触れていないが、本当は官民一体となっての活躍を紹介したかった。結果的には研究者の道でも学者の道でもない、実業の世界での社会人として大半の人生を送った。

苦しい事もあったが、実業の世界で生きることの生甲斐に大いなる魅力を感じている。

僕の小、中、高の得意な学科と云うのが理数系であったので、商社マンと云うよりか研究者的な仕事が相応しいと漠然と思っていた。全く想像外のキャリヤを歩むことになったと云える。思えば運命とは予測もつかぬ方向に進んでしまうものだ。新宿高校の物理の先生は大学の進学に際して京都大学で物理の専攻をすることを熱心に勧めてくれた。自分も自信過剰ではあったが、その積りで将来の方向を真剣に考えて京大を受験した。結果は不合格で浪人する事になってしまった。

皮肉なもので、入学したのは理数系の希望とは程遠い東大文学部で入学の意思は全くなく、浪人しても東大に入学出来なかったと云われるのが悔しいので、東大は合格したとの記録を残す為だけの受験だった。高校からの内申書の表書きは当然東大理学部宛となっていた。しかし、扁桃腺手術後に起きる筈のないと思っていた高熱が受験3週間程前から出て、激しいショックを受けて自信を失っていた為の事件である。その結果、東大への高校からの内申書の宛名書きを自分で勝手に理学部から合格の記録作りの

目的のみで文学部宛に変更してしまった。後に高校の担任の先生や物理の先生からは、ひどく怒られた。東大文学部と云えども合格して見るとやはり気持ちが揺らいだ。滑り止めで合格していた私大の理工学部に行く筈であったのだが、ブランドに目が眩んだのか、行く気も無かった文学部を選んでしまった。文学部には、どれをとっても僕の目指す学科は無いので社会人になってからの進路が読めなくなってしまった。苦慮の結果、中でも少しでも理系の手法が生かせそうなコースと云う事で心理学を選んだ。

有意差を求めて推測統計学を活用するマーケティング調査とか世論調査に多少の救いがあると思ったからだ。卒業後は、大先輩の経営している

マーケッティグリサーチ社に数か月席を置いたが、両親の知合いが総合商社の役員をやっていたことと、海外での仕事にも大いに興味があったので、マーケッティングリサーチ社は4か月足らずで退職し、その総合商社に転職した。余談だが当時のマーケティングリサーチ社は明治通りの原宿交差点にあったので、原宿界隈の昔の光景を知っている者にとっては現在の原宿は全くの別世界を見る思いである。その頃は世論調査社を主力としていた会社と日本の調査事業を二分していた頃である。  

さて、前書きが長くなったが、生まれ変わったら何をしたいかとの設問に戻る。

偶々理数系、取分け物理の成績が良かったのが契機で京都大学の日本初のノーベル賞受賞者である湯川博士の元で学びたいと云う単純な考えからだ。思いもよらぬ文科系を専攻したが、考えて見れば文科系であったのが契機で、社会人となり総合商社に入社したことを思うと、少年時代の大志に負けないだけの経験をすることが出来た。大型な取引や数奇な国際経験と海外生活は限られた人しか経験出来なかったからである。      取分け通算10年も過ごした南アのヨハネスブルグ時代は白人によるアパルトヘイト政策で有色人種が差別されていた時代で、国連からの経済制裁も受けていたからである。この時代は米ソを主力とする東西の冷戦時代の中で、経済大国として急成長していた日本は、主要な資源を共産圏から輸入できず、日本が頼りにしていた資源大国は南アフリカのみで、その国が経済制裁を受けているため大変な苦労をしながら実績を上げて来た。戦時中の「お国の為に!」と云う気持ちで汗を流していた。後に黒人のANC指導者であったマンディーラ大統領と共にノーベル賞を受賞したボーア人のディクラーク氏との親交を得たのもこの時である。

37年間の商社マンの後には、3年と云う短い期間であるが、日本初の通信衛星放送である「パーフェクトTV」(現在の「スカパー」の前身)の親会社である日本サテライトシステムス(現在のスカパーJSAT())の代表取締役となった。1996年10月の放送開始を目標に初の通信衛星放送を開始する予定であったが、インフラを一手に引き受けていたソニーの機器に100以上のバグが出てしまったので、正式放送は翌年の1997年1月になった。初の通信衛星による放送会社の起ち上げや、人工衛星の制作、その打ち上げ等で、米国やEU諸国のトップとの交流は貴重な経験となった。通信衛星会社は当時、日本にはJSATと三菱グループの宇宙通信会社の2社があったが、現在は衛星会社2社と放送会社のスカパーが合併して「スカパーJSAT株式会社」1社のみが日本を代表する唯一の民間の商業衛星会社となって居る。僕が代表取締役となったJSATは日商岩井(現在の

双日)と三井物産、伊藤忠、住友商事の4商社による合弁会社で、三菱グループの宇宙通信と2社で競り合っていた。

衛星会社の2社時代の両社の葛藤やマードック氏率いる米国の放送コンテンツにまつわる危惧等一日も心休まる時が無いほど激動の時代であった。又、宇宙の流星群が地球に接近した際、衛星と流星との衝突を避ける為の対応策で、夜も眠れぬ時を過ごした時もあった。実業の世界が何と多彩で魅力のある仕事か。成功も失敗も隣り合わせで、喜びも落胆も混在した世界は、今となっては研究や教職を凌ぐ魅力として、来世でも引継いでもよいと思うようになった。    座右銘「爾今生涯」と共に。