エッセイ集(G) (第19~21話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。

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第19話 勇気と希望を与えてくれた「座右の銘」

A)わくわく人生への座右銘 : 

1)[爾今生涯(じこんしょうがい)]:”これから私の本当の人生が始まる”

この言葉の意味を説明すると、「生涯現役」や「生涯青春」と同じですねと云う意見を云う人がいますが決定的な相違を云えば、爾今生涯は今日が人生の“スタート”と云う意味が主体でいつまでも若々しくしていたいと云うことが願望や目標ではない。

爾今生涯の積りで生きている人は新しい職場にて「さあ、これから自分の選んだ此の道に向かって生きて行くぞ!」と云うこれから進む道に向かっての決意に主体があります。結果的にはその人は若々しい人生を送れることになる可能性があっても若々しくしている事自体が目標ではありません。

 

2)[青春という名の詩]・・サムエル・ウルマンの詩です。

               ([Youth]・・Samuel Ullman

"青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。バラの面差し、

紅の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、

炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。”

( Youth is not a time of life; it is a state of mind

  It is not a matter of rosy cheeks, red lips and supple knees;

   it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor

   of the emotions;it is the freshness of the deep springs of life.

 

3) ”冷静を求める祈り”…….(ラインホールド・ニーバー)  

                神よ、

    変えることのできるものについては、

         それを変えるだけの勇気を与えたまえ。

  変えることのできないものについては、

         それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。

  そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

         識別することの出来る知恵を与えたまえ 

         ”Play for the serenity"

   God grant me the serenity

          to accept the things I cannot change,

   the courage to change the things I can;

          and the wisdom to know the difference.

                                                         Reinhold Niebuhr

B)幸せを招く名言

   1)[富たりとも、足るを知らぬ者は 貧なり、 

              貧なりとも、足るを知る者は 富めり]         ・・要求水準(Level of aspiration)と 自己認識・

   2)[平、平、凡、凡の日も、感動と感謝の連続の日なり]

           ・・人はそれを失った時に、幸せに気づく・・

      3)[”運を育てる”・・幸運の女神は ”謙虚”と ”笑い”を好む]

    4)[世の中の成功者と至福の人は、おしなべて楽観主義者に多い]

    5)[私は一度も失敗した事がない、千回の試みをしたに過ぎない]

                                                                  ....  エジソン

      6)地上で生き残って行く人は、金持ちの人でもなく、力の強い人     でもな い。生き残って行く人は、「変わりゆく環境に合わせて

    自分を変えていける人です」 .....ダーウイン(種の起源)

       7)[ 縁に出会って、縁に気づかぬ者

          縁に気づいて縁を活かさぬ者

              袖触れ合う 縁も ”他生の縁” とする者]

            ........縁は ”商機”、 縁は ”女神”、 縁は”奇跡”.......

第20話 リクルートの創業者、江副君を偲んで

20132月、江副君の訃報をテレビのニュースで知って、突然の報道に驚いた。しばらく疎遠であったが残念なニュースに接し、生前の彼の偉業に拍手を送りつつ、ご冥福を祈るばかりであった。

リクルート事件と云う、日本中を揺るがす様な事件を1988年に引き起こし、彼は失脚してしまったが、かかる事件が無かりせば、彼の才能は限りなく発揮されて、日本の経済界に計り知れない貢献をしたであろうとおもうと残念である。

 江副君との出会いは東大本郷キャンパスである。彼の専攻した学部は教育学部心理学科、僕の専攻は文学部心理学科で学部は異なるが共通の心理学の講座や異常心理学の授業で医学部との合同授業で一緒になることがしばしばあった。

又、2人の生年月日が昭和116月生れの同い年であることで、親近感を持った。

しかし、最も親しくなったのは、東大学内の「若葉会」という社交ダンスでの交流でした。その頃、東大には競技会レベルの本格的なダンスクラブとしての「ダン研」と同好会レベルの「若葉会」があり、僕たちは共に若葉会でダンスを武器に多いに青春時代を楽しんだ。女子大とのダンスパーティや当時の四谷駅前の「主婦会館」で各種パーティが行われしばしば一緒に出かけていった時もあった。

その当時、彼は東大新聞の広告取りのアルバイトをしていたが卒業後の希望就職先を聞いたらアルバイトの経験を活かして起業し、「大学広告社」を創業すると聞いて驚いた。今で云う、ニッチ産業だ。この頃の広告業界では既に、電通、博報堂、大広等が業界を支配しており、その中での広告会社の創業はあたかも敵の戦車に向かって竹槍で戦いを臨む様なものだと思ったからである。彼の情報によれば当時、全国には900校余りの大学、短大、専門学校があり、この業界に特化した広告代理店を創業すると云う斬新なアイディアを滔々とのべた。これが、今日の大企業「リクルート」の原点となったのだ。

しかし、スタートは「大学広告社」であったが、各企業からの広告の依頼が「人事部」からが多く、他の企業は広告は宣伝部とか広告部とか広報からであるのとは異なっていた。

又、此の頃の市販の就職案内用の会社情報は1冊に多数の企業案内を載せていたので、1社当たりの紹介は、2~3ページ位しか出来ないので、内容は極めて一般的な簡単な内容で就職用の会社案内とは云えるものではなかった。

ここからが企業家としての江副君の知恵が発揮されたのです。1社当たりの紹介記事を10頁位にして、掲載企業からは、1社当たり30万円程度の会費を取り、20社で1冊に編集したと思う。そしてその会社案内本は、無料で学生に配ったので大反響となった。しかも、企業によって配布して欲しい学校と配布しないでよい学校を選択することも出来るので、そのページを製本の段階で選択して配布したのです。

誰でも思い着く様でありながら気が付かない企画です。従って印刷代と製本代を安くする為の工夫をしていたのです。

その当時僕の父が愛宕下で印刷会社をしていたので、父も破格の値段で色々協力してくれました。詳細は不明ですが、江副君の企業資金は確か彼の叔父さんからの70万円の出資で始めたと聞いています。従って資金的な余裕は殆どなく起業したので、節約と工夫が効を発揮したと思います。

従って当初の会社の事務所は西新橋の森ビルの屋上におっ立てた小さなプレハブの事務所から始まりました。次の彼の着眼点も良かった。大学広告社の広告主が上場企業の広報や宣伝部でなく、殆んどが「人事部」であることから、企業の人材採用に着目して社名も「大学広告社」から「リクルート」へと衣更えしたことでした。

 これと並行して、各企業の詳細な会社案内を会費制で一業種一社と云う企画で20社程にまとめて案内本とし、学生に無料で配布したのも斬新なアイディアでした。

出版費は、企業からの相当額の会費でまかなったので、ここからの利益がリクルートを躍進に導いた。企業主の希望で特定の大学を選ぶ時は、案内本に載せる企業と載せない企業をそのページだけを取り換え新規企業の追加で簡単に選別編集出来ました。

素晴らしいアイディアの連続で、企業は更に躍進しました。その時には、既に屋上のプレハブ事務所を脱出して、西新橋の中規模のビルを一棟賃借していたが、銀行からのアドバイスもあり頭金を払って、そのビルを買い取ったと記憶してます。折からのバブル経済で買取ったビルの資産価値があっという間に大きくなり、次々とビルを買取り始めたのが、不動産業

リクルートコスモスのスタートとなりました。

 その後、彼はスーパーコンピューター基地を川崎に作り、いよいよ情報産業に進出する段取りだったが、例のリクルート大事件を引き起こし、失脚することになってしまったのは残念でならない。自業自得とはいえ、多くの可能性を秘めた才能が抹殺されてしまったことになります。

小さな印刷会社を経営していた僕の亡き父も、僕の友人と云うことで

会社案内本を超格安で印刷し、創業時代の彼を応援していましたが、江副君がリクルート事件で失脚する前に他界してしまったので、彼の苦境を見ないで一生を終えたのは幸いだったかも知れない。

事件が一段落して彼は財団法人江副育英会の理事長として、現場から離れてしまったので、事件以降、彼と会う機会は殆んどなくなったが、彼は「学生時代のダンスを始めた」と風の便りに聞いていたので、機会を見て学生時代のダンス談義でもしようかなと思っていたので、残念だ。

彼のご冥福をお祈りします

第21話 人口衛星の葬式に涙した時

 

JAX Aの小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」から採取したサンプルを地球に、無事持ち帰った時のことをご記憶のことと思います。

一時は行方不明となったり交信が途絶えたり、搭載した電池の故障とか多くの苦難を乗り越えながら、打ち上げから7年の歳月をかけて無事地球に帰還した時、日本中が感動で湧きました。

日本が宇宙探査で世界で初めての偉業を果たし、世界中でも大きく報道されました。担当したJAXAの人だけでなく、多くの人が「はやぶさ」に向かって「ご苦労様!」とその偉業を讃えました。その光景は人間を讃える様子と同じであったと思います。

 僕が現在の「スカパーJSAT」の黎明期の仕事で、同じ様な経験をしたことを思いだしました。

生物でない物にも寿命があります。そして、寿命のある物がその役割を終えて最 後を終える時は、生物の最期を見守る時と同じ様な 感情が湧くことを体験したからです。

生物、無生物を問わず、その役目を果たし、消えて往く者への感謝と去り行くものの哀れは生命の無い物へも通じると強く思ったからです。

僕が現在の「スカパーJSAT」の前身、「日本サテライトシステムズ株式会社」の営業本部長として、日本最初のCS衛星放送 「PERFECT  TV(現在のスカパーの前身) を立 上げを担当したのが1996年で、パーフェクトTVの放送開始の予定が当初1996年10月でした。

しかし、放送開始予定の10月に立ち上げの日までに放送インフラ機器に

100か所以上のバグが出て、止む無く正式な放送は3ヶ月遅れの1997

1月になってしまいました。

当初スカパーは日本サテライトシステム社の所有しているJCSAT-3からスタートしました。

 その後、僕が営業本部のみでなく、衛星の調達から運営管理までを管掌する代表取締役となった頃、JCSAT-1号機の寿命が来て、1998年に運用を停止し、その後継機に場所を開ける為にJCSAT1号機を軌道から外すことになりました。後継機にその軌道位置を譲ると云う、初仕事を担当したのです。

ところで、地球から3万6千キロ上空で静止している静止衛星の寿命は何時、どうして継続してそこに留まれないのかと云う疑問をお持ちになるでしょう。

それは、人工衛星の姿勢制御をする為の限界がある為なのです。地上から見て静止している様に見えますが真空地帯にいる衛星も宇宙の複雑な影響を受けて姿勢を一定に保つ事が出来ないのです。ローリングとかピッチングと云うような左右にぶれたり、お辞儀をするような動きをしてじっと静止できないのです。その様に姿勢が崩れると地上の狙った通信基地や放送基地への電波の方向が外れてしまい計画された様に通信出来なくなるからです。

その上、衛星そのものが、何もしないのに西へ西へとドリフトして行くので、そのままにして置くと、計画された静止位置から大きく外れて役にたたなくなってしまうからです。

真空で空気が有りませんからプロペラを回して元の位置にもどすことも出来ないのです。

そこで衛星の中には打ち上げの時使う燃料ガスをある程度残して置きます。このガスを逆噴射してその反動で姿勢を制御したり、位置のずれを元に戻しているのです。

従って静止衛星には、逆噴射用の小さなバルブが沢山ついているのです。

余談ですが、静止衛星は地球からの遠心力と重力が同じベクテル上で、拮抗して静止しています。これは赤道上空のみ可能である為、静止衛星の軌道位置は、限られております。衛星同士が衝突したり電波干渉を避ける為に仮に「経度」2度づつ間隔をとるとすれば、円形状の赤道上空は

360度÷2度=180か所と限られています。世界中の静止衛星は300機以上あると思われますので、静止衛星の場所はどの国も専有することは出来ません。 先進各国の取り合いとなっている為、世代交代も手際よく済ませねばならない。

従ってどの国も後継機の打ち上げは手際よく実行しないとその使用権利を失うことになります。そんな次第で各国の衛星打ち上げ基地は赤道に近い位置にあります。米国はフロリダのケープカナベルですし、EUの共同基地は南米の仏領ギアナですし、日本は鹿児島県の種子島の様に赤道に近い場所を打ち上げ基地としています。基地が赤道から遠いと、打ち上げのロケットの燃料が多くなったりロケットの部分が大きくなり、打ち上げコストが巨大になるからです。

米国のボーイング社は船舶上から人工衛星を打ち上げる技術を開発し、衛星を赤道まで運び打ちあげる技術を開発したのは、打ち上げに必要なロケットの推進燃料を最少にする工夫から考えた技術ですが、基地としての船舶の安定等の問題をどの様に解決してるのか興味を誘います。

さて、前置きが長くなりましたが、僕がスカパーJSATの完成センターも管轄責任のある時にJSATの最初の人工衛星JCSAT-1号機の寿命が来て、後継機に場所を開ける為にさらに高度を50キロ上空に移動させる時が来ました。そこがJCSAT-1の墓場となるのです。

それまで10年近く色々な任務をこなし、流星との衝突の危険も克服して最後までその時の為に残して置いた最後の燃料を噴射して、墓場まで移動する時が来たのです。

地上からの姿勢制御や位置の是正も今後は出来なくなり、宇宙を彷徨うことになります。

墓場に向う最後の燃料を噴射するボタンをスカパーJSATの横浜中山の衛星管制センターで押しました。安全を期し最後のボタンは当時の社長と副社長の僕と二人で同時にボタンを押して、セレモニーは終りました。管制センターの全員で拍手で送りだしました。

長年の役目を終えた人工衛星の お葬式でしたが「有難う」「お疲れ様でした」と云う無言の言葉が自然と心にみなぎりました。人間のお別れと変わりないと思いました。

JCSAT-1号機は、1989年3月に打上げられ日本初の 民間商用通信衛星として立派にその役目を果たしたのです。

別れの寂しさは、人間や動植物に限ったことではないことを知りました。