エッセイ集(H) (第22~24話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。

・・・・・・・・・・・第25話~27話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第22話  Fine Country シンガポールの魅力

 

1989年から2002年の3年余り、僕はシンガポールに大手総合商社の地区支配人、シンガポール支店長の肩書で当国に駐在しました。

此の国は、第二次世界大戦中に日本軍が侵攻して占領し、194245年の3年間は、「昭和島」と呼ばれていました。40才位の中年の日本人でも初耳だと云って驚く人が多いのには僕の方こそ驚きです。シンガポールで驚いたことは、公衆道徳を守らせる為に色々な罰則を課して秩序を守っている事でした。横断歩道以外の場所で道路を横切っても罰金、道路に唾を吐いたら罰金、レストランでタバコを吸ったら吸った本人もレストランも罰金を科せられます。

従って「Fine(罰金)と素晴らしい(fine)国をダブらせて美しい

国と罰金国家と云う意味をかけて巷では「Fine country」とも呼ばれています。公衆道徳を守らせる同国の知として賞賛に値するとも

云われております。

太平洋戦争で日本が同国に進攻するまでは、シンガポールは英国の植民地であったので、日本軍が侵攻した時は、イギリス軍が守っておりました。当時の日本軍の総司令官である山下将軍が当時の英国軍総司令官パーシバル将軍に降伏するのか否かを問い詰め「Yes Noか?」と詰め寄ったシーンは、戦時中の小学校のテキストでも必ず記載され学習していたので、現在後期高齢者になって居られる日本人なら皆知っている有名なシーンでした。

ともあれ、シンガポールは大戦後独立し、リークアンユー首相が

この国の指導者として、驚異的な発展を遂げたことはご存知の通り

です。大戦後、シンガポールは英国の自治州となり、1965年には

マレーシア連邦から独立して、主権民主国家と成りました。

シンガポールはアジア地域の重要な貿易の中継地として発展して行きました。1960年代に職住接近型の大工業団地(ジュロン工業団地)を国連のUNDPの協力を得て開発し多くの外国企業を誘致しました。又、頻繁に往復する船舶に注目して大型造船所を誘致し、日本の大手造船所も競って同国に進出し大型船を建造したり修理出来るドックヤードを同国に建設しました。

各種商品や商材の中継貿易を積極的に推進したり、近隣諸国の金融市場としても重要な基地として成長しています。僕が同地に滞在中にシンガポール政府は同国にも日本のような総合商社を育てようとして希望商社を募りました。

その結果、日本から2社、米国から1社、シンガポール国内から1社をAIT(Authorized International Trader)商社として、厚遇しました。これ等の商社はシンガポール法人の輸出輸入商社として優遇税制が適用されました。

僕の会社は真っ先に申請しその時の日本の支店を現地法人として

登録し、AIT1号商社として認可され、取引額も石油や金の電子

トレードを含めますと1兆円を超える規模に成長しました。

当時の同国の商工大臣はリークアンユウ首相のご子息で、現在の

首相であるリーシェンロン商工大臣がAITを推進していましたので、親しく打合せ等でお目にかかれる機会がありました。その時の大臣との会食中の雑談から空港増設や埋め立てに必要な膨大な数量の砂利の調達を担当することが出来ました。

即ち同国内の砂利の採取可能な箇所がその当時15か所以上有りましたが、その内の半数以上が度重なる採掘の結果大きな窪地に成って危険な為、公害防止の視点から採掘出来ずに困っていることを知りました。そんな雑談が僕の頭にこびり付いていました。ある日、取引先の木材会社の社長と昼食をしている時にこの話をしたら、彼の父親が隣国のインドネシアのリアウ島で砕石用の山を2ヶ所持っており、そこで砕石した砂利をリアウ島内の道路建設用に供給しているとの朗報を聞き、僕は小躍りして喜びこの砂利をシンガポールの第二ターミナルやその他の計画に使用出来たら良いなと大いなる勇気を得ました。しかし、直ぐにこのアイディアも難関に出会いました。その木材会社の社長の話では、山が2つあるので石は充分あるが、その石を砕いて砂利にするクラッシャーやベルトコンベーヤーの能力ではとてもシンガポールの需要を賄えないと云い出し、今のリアウ島の設備の10倍程度の生産能力が無ければ対応出来ないと諦めてしまいました。

僕は日本商社とシンガポール法人の商社社長と云う2ツの帽子を被っている訳ですから、直ぐに問題解決の為、その当時稼ぎの悪い日本の駐在員を呼んで、すぐに隣国のマレーシアやベトナムへ行って建設の終わった中古の大型クラッシャーとベルトコンベーヤーを探して来る様に命じました。

流石、日本の駐在員です。3日もたたない内に、格好の設備をマレーシアで見つけて来ました。例の木材会社の社長から2ツの山を担保に取ってこの中古の大型設備を売り、大型のバージでリアウ島からシンガポールまで砂利の運搬をピストン往復で供給しました。

設備を売った代金と金利は砂利の運搬で得る利益から払って貰う事にしましたので、代金の回収は予定どうり毎回きちんと払って貰いました。

その木材会社の社長はこの砂利の商売で財をなし、その後、バージ

輸送をしている会社も買い取り、造船と船の修理会社も始めて、

大成功をしました。此の砂利を購入してくれる会社が殆ど日本から

シンガポールへ進出している日本の大手建設会社であったことも幸いでした。僕が日本に帰国してからシンガポールのセントーサ島と本土を結ぶコーズウウェイが完成し陸続きとなり、従来のフェリー

輸送はなくなりました。又、チャンギエアポートの第2ターミナル

も完成しましたが、インドネシアのリアウ島から運ばれた砂利が

見事にその役目を果たしてくれたのです。

その後、シンガポール政府はマレーシアと繋がるコーズウエイを

もう1本建設し、水や食料やその他資源の輸入を確保し、国力の

充実を図りました。第2コーズウエイと呼ばれる国境を繋ぐ道を

海峡を埋め立てて建設しましたが、これにもリアウ島からの砂利

が使われた事は云うまでもありません。

シンガポールは、日本の東京都ほどの広さしかなく、人口も外国人を入れても600万人たらずの小さな都市国家ですが、教育水準も高く、優秀な人材も外国からも招致し、国際的な主導権も確りと

発揮している極めて注目すべき国になっているのもリークワンユウ

初代首相の思い切った政策と行動力によるものと思っています。

こんな小国でもいざと云う時の行動が即座に取れるように、空港

から街中に出るまでの道路は中央分離帯をいつでも取り外しが出来て、戦闘機の発着が出来る様に植木鉢が置かれていますし、

優秀な人材を育成するために小学3年生になると選別され、優秀な人材に育てられるグループに集められて、将来のシンガポール大学まで特別英才教育をしています。賛否両論があっても、彼らは迷わずエリート教育をしています。当にGreat Fine Countryです。

 

第23話  マレーシアの「首狩り族」を訪ねて!

 

シンガポール駐在時代、日本の各企業の支店長や幹部の人々はオーチャードストリート沿いにある飲食店が多く集まったカッページプラザビルに夜な夜な集まり懇親を深めていた。取分け単身赴任で日本に家族を残して来た駐在員にとっては大いなる憩いの場となっていました。ここから気の合った仲間同志が企業の壁を乗り越えて、シンガポールの近隣諸国を旅行する会をスタートさせ、年に1~2回の頻度でグループで旅行をすることになりました。最初の旅行が

ネパールであったので、ネパール語で「仲の良い友達」と云う言葉で「ラムローサの会」(正しい発音のネパール語かどうか不明)と命名されています。

このグループは日本に帰国し、OBになってからも頻繁に会食を続けている楽しい会となっています。今では発足以来略30年も続いている伝統のある会になっているばかりか、シンガポールに現在駐在している現役組もこの会を継続していると云うから驚きです。

シンガポールの近隣諸国を訪問した中で、特に関心の高かった旅行 はボルネオ島のマレーシアのサラワク州で、未だに嘗て首狩り族であったイバン族が集落を造って昔ながらの風習を保って生活してい ます。彼等は100メートル程もある長屋に30世帯もの一族が同じ屋根の下で暮らしています。地面から可なり高い高床式の家屋で高床の下にはニワトリ等の家畜を飼っており、高床からは住人達の糞尿が落ちて来るので、それが家畜の餌になっています。  

ラムローサ会の会員約20名程でこの首狩り族を訪問することになり、シンガポールで色々な菓子類を土産として沢山買い込んで出かけて行きました。

サラワク州には、今から150年前迄多くの首狩り族が住んでいたそうですが、我々が訪問したイバン族はサラワク州では最大、最強の首狩り族であったと知りました。この村を陸上から訪問するには、

4~5時間程の奥地に入らねばならなかったので、僕達はサラワク州の首都であるクチンから舟でサラワク川を1時間程遡って彼らの住む村に向かいました。首狩り族を訪問すると云うので若干不安を感じていましたが、実際に人の首を狩る習慣は英国からのキリスト教の白人の王様が統治するようになった19世紀後半頃からこの野蛮な風習は次第に消えて行ったと聞いて安心しました。今日ではこんな殺人行為は当然殺人犯罪であり、僻地の習慣としても許される筈はありません。

首狩りの習慣は村の男性が結婚する前に敵対する村の男の首を狩り、その首を花嫁の親に捧げて自分の勇猛さを誇示する為の行為であったそうです。

さて、僕達の舟がイバン族のロングハウスと呼ばれる巨大な長屋が見える迄は1時間程の船旅をしたかと思います。シンガポールからの僕達の訪問を事前に知らされて居たのか、老若男女大勢のイバン族の人たちが川岸に立って手をふって出迎えてくれました。彼らの広間はロングハウス内の広くて長い廊下の中央部にあり、その広い廊下に沿って一族の各家族毎の住まいが並んでいました。僕達が持参した大量のお土産は綺麗に小分けされて床の上に並べられ、酋長がロングハウスに住んでいる各家族を次々と呼び出し、小分けされた土産品を公平に分配している光景は、印象的でした。

酋長の歓迎の挨拶は、日本のドブロクの様に白濁した酒を全員で回し飲みすることから始まりました。酒の回し飲みは、衛生面を考がえるとチョット躊躇しましたが全員我慢して飲み干しました。

酒の儀式が終わると一羽の鶏が生贄として酋長に渡され、彼は慣れた手つきでその首を切りその血の付いた蛮刀を右手にもって振り回しながら長い踊りを無心に踊り続けました。

その内、酒の酔いが回っているかの様に恍惚な様相となり、大ぶりな踊りを踊っている内に、蛮刀が酋長の足首にあたり血が噴き出して来ました。酋長は気が付いているのかいないのか、変わりない様子で最後まで踊り続けました。

これを見ていた僕達のメンバーの一人が、踊りが終わるや否や酋長の足元に駆け寄り鞄から常備薬として持ってきた塗り薬を塗って包帯をした素早い行動は見事でした。同時に酋長の娘さんと思われる着飾った女性が、飛び出してきて僕達のそのメンバーの行動の手助けをするのも見事なものでした。 

酋長の娘の熱い眼差しを感じ、手当をした仲間の男性はこの村に残ってくれと云われたらどうしようと勝手な想像をして心配になっていたそうです。

ロングハウスの天井には大きな網で編んだ籠が数ヵ所ぶら下がっており、その中には無数の白骨化した人間のされこうべ(髑髏)が入っており、その光景は首狩り族の異様な行動を想像させるほどの異世界のものでした。

しかし、この首狩り族も今では若者達の多くは首都のクチンや島内の都会に働きに出ており、首狩り族の村も可なり現代化が浸透していると聞きました。

僕達が小舟で村を離れる時は、大勢の村人が川岸に並び、舟が見えなく成るまで、両手を振って送ってくれました。

さて、このサラワク州の首都クチンはマレー語で「猫」という意味で街の中央にも猫の彫像が立っており、市庁舎内には猫博物館がある程でした。サラワク州は木材の重要な輸出地として知られていますが、日本がその木材や合板の最大の輸入国となっています。その結果、森林伐採や環境破壊等で原住民の生活に多大な影響を及ぼしています。又、同じボルネオ島のマレーシアのサバ州と日本との係りも長く、日本が貧しい明治から大正時代に生活苦で止む無く親が手放した幼い娘達がこの地域の遊郭に売られて行ったと云う悲しい歴史がある地域でもあります。山崎豊子の「サンダカン八番娼館」(文春文庫)に物語が記されていますのでご参照下さい。僕が1988年にシンガポールに駐在しましたが、その頃には未だシンガポールにも嘗ての娼館が歴史を語る様に残っていました。初めて日本人墓地をお詣りした際、30センチ四方のコンクリートの塊が沢山あるのを見てその理由を尋ねたら、その頃日本から娼館に売られて来て現地で性病等の病気で亡くなった人達の墓であることを知り、今更ながら哀悼の気持ちを抑えることが出来ませんでした。日本の現在の繁栄もこの幼子達の犠牲の上でも成り立っていることを知り、悲しい気持ちでいっぱいでしたが、週に1度は日本人学校の全生徒が交代でこの墓地の清掃と花を添えていると聞いて少し救われた気持ちになりました。合掌

第24話  型破りなナイジェリアの製鉄プロジェクト

 

  日本の神戸製鋼が当時のナイジェリアの首都ラゴス(現在は新首都のアブジャ)から約1000キロも内陸に入った都市、カチナ市に棒鋼圧延を主体とする製鉄所を建設することになったのは、今から40年程前の1980年頃でした

僕はこのプロジェクトの協力商社として神戸製鋼のスタッフと共に一心同体で契約迄の交渉、建設や輸送事情等の調査をすることなってナイジェリアに何回も出張することになりました。僕の仕事柄海外出張は非常に多く特に驚くことは無かったのですが、この国の仕事に係ってからは、驚くことの連続でした。

この国に初めて入国する時からラゴスのホテルに着くまでは、驚きの連続でした。

入国手続きを早く済ませる積りで前方の列に並びましたが、この入国手続きには、可也の時間が掛ると聞いていましたが、1時間たっても全然列は前に進まず、どうなって居るのか前方を注視していると、乗客のパスポートを束にして抱えた空港職員と思われる男が列の後ろの方から最前列に進み出てパスポートの束を直接入国管理官に渡しているのが見えたのです。最初は何かの事情で特別な対応をしてるのかと思っていましたが、同じ様なことがひっきりなしに繰り返し行われているのが分かったので、同じ列に並んでいる白人にこれは如何になっているのか尋ねたら、大きなジェスチャーで、いつもこうだと諦めている風でありました。気が付いた時は僕たちが最後尾になっていたのです。パスポートコントロールをやっとのことで終えて、回転ベルトから自分の荷物を取ろうとしたら誰かが素早く僕等の荷物を取って離さず、車まで運んであげると親切そうに言っていましたが車に着いたら又、ひと騒動になりました。好意で運んでくれたものと思っていましたが、法外なチップをよこせと云って荷物を離さないので参ってしまいました。

その後、空港からラゴス市内まで今では15分位で着く程の距離しかないと思いますが、その頃の空港から市内までの交通渋滞は激しく1~2時間はかかったと思います。その道中、道端に犬か何か可也り大きな動物が車にひかれて横たわっていましたが、誰も構わずその上を平気で次々と走っているのを目撃して、何と恐ろしい国に来てしまったと驚きで身を反らしたことを忘れません。

今ではそんな事はあり得ないとは思いますが、その驚きようは言語を絶しました。この国はその当時、賄賂やチップを払わなければ、何事も進まないと現地の日本人駐在員から聞いてやっと事情が呑み込めました。

現にこのプロジェクトの招聘を受けてから契約に至るまでに1~2年程を要したと思いますが、入札から受注するまでのこの国の政府要人との打合せの期間中も政変があったりクーデターもあったり、ヒヤヒヤする連続でした。その当時のこの国は賄賂は必要経費と思はなければ何事も進まないことを悟りました。それ故、政変やクーデターが起きると担当者や管理者も変わり振り出しに戻って何事も最初から進めなければならないと思うと気の休まる日はありませんでした。

さて本題の製鉄所建設に戻りますが、製鉄所の立地条件に関して云いますと、製鉄所は通常、その原材料の搬入と圧延した鉄鋼資材の搬出のことを考えると可なりの重量物が多く、その輸送費を抑える為に通常は、海上輸送の船舶の往来に便利な臨海地に立地するのが常識となっていますが、ナイジェリアのカチナ製鉄所の建設地は海から1,000キロも内陸に決められているので、その製品や原材料の輸送費は莫大の費用となると思っていました。

最初から僕達は大きな疑問を持っていましたが、お客様であるナイジェリア側で既に動かせない決定事項となっていたので、敢えて議論はしないでいました。

本来、この種の大型プロジェクトを推進する際はFeasibility Study (F/S)と云ってそのプロジェクトの計画実現性とかクリアしなければならない問題を事業開始前に徹底的に調査をしてから、建設場所も含め慎重に決定するのです。しかし、発展途上国の場合は自国でF/Sができない場合が多く、先進国にF/Sを依頼し、建設業者との打合せにもコンサルタントとして事業主に代わって業者との打合せにも同席したりするのです。奥深くの内陸に製鉄所を建設することは事業者側の既定事実として入札の前提条件となっていました。現地での噂では、カチナは、この国の軍担当の大臣の郷里で誰も反対出来ないと聞きました。入札者は逆らえず遠くの内陸まで製鉄機械の重量物を安全に運ぶ調査を路上と鉄道輸送について綿密な調査をしなければなりませんでした

従って、入札者は建設現場に至るまでの鉄道や道路を実地に走って問題をチェックするのが基本となります。鉄道輸送の場合では、輸送中に通過する1つ1つの橋をチェックします。

又、道路輸送のときは、最大の重量とか体積のものを運ぶのに障害となる橋や輸送の難しい地点を調べたり重量物を運べる特殊車両が現地で調達可能か等々綿密に調査します。又、この調査の道中で土地の部族に襲われそうになったと云う報告も有りました。協力商社も調査等でそれなりの苦難や苦労をしていますが、建設に携わる神戸製鋼のスタッフのご苦労は大変な事だと想像できます。

僕が出張でラゴスに滞在した際も短い日時でも飲料水や食料等で 色々と神経を使いました。水道の水は飲めませんので、大きなヤカンを購入して水を熱湯消毒し、それを濡れタオルで包んでホテルの冷房機の上に乗せて充分に冷やしてから飲むようしてました。赤道直下に近い所ですから店で購入する食糧品にも警戒して安全な缶詰を沢山買い込んでサバばかりを食べて居た時もありました。

今から40年程前のナイジェリアでは、店にはいつも同じ物が置いてあるとは限りませんので、物がある時に買いだめしたりしました。

しかし、製鉄所が完成する迄の色々な苦労や困難も、完成祝賀式でおとぎ話のような光景を見て、それまでの苦労を忘れて報われた様な気がしましたから不思議なことです。

ナイジェリアの部族と云えば、ハウサ族,イボ族, ヨルバ族が有名で部族の大半を占めておりますが、小さな部族をいれると300500程の部族がいると云われております。カチナは内陸のハウサ族の多い地域ですがこの地方の部族の酋長が製鉄所の完成祝賀式には民族衣装をまとって続々と製鉄所に集まって来ました。各酋長とも時代物の米国製と思われる大型の乗用車で乗り付けてきますが、酋長が下りて来る時には、児童の絵本で見るような非常に長い柄のついたラッパを天にむかって吹くお伽の様な光景が沢山見る事が出来て、それ迄の苦労を忘れる程の喜びが沸き起こる程の素晴らしい光景が展開しました。 

今から40年程前の経験ですが、ナイジェリアは産油国で今ではビックリする程人も街も近代化していることと思いますが、それ以降は同国に行く機会もなく、情報も入ってきませんが、内陸深い土地で建設された製鉄所がどうしているのか不明で気になっていますが、何事も無く無事に操業されていることを祈る気持ちで一杯です。