エッセイ集(I) (第25~27話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。

・・・・・・・・・・・第28話~30話 (更に続く)・・・・・・・・・・

第25話 多民族多文化社会のマレーシア

 

マレーシアはポルトガル、オランダ、英国等の植民地であった歴史から多民族、多文化が混合しているユニークな国である。マレーシアのマハティール首相は、この複合した国を長年に亘り1963年以降多くの困難を克服して現在のマレーシアの舵取りをして来ました。92才のご高齢にも顧みず引退していた身体に鞭打って、首相にカンバックして世界を驚かせました。

マレーシアは僕が総合商社で此の地域のビジネスを管轄していた頃、同国は13州と直轄自治都市であるクアランプールから構成されていました。この13州の内、ペナン、サバ、サラワク、と マラッカの4州を除く9州には、夫々サルタン(首長)が居りその9人のサルタンが5年毎に順番に「マレーシアの国王」となり、クアランプールの国王の宮殿に入っていました。

マレーシアは、600年前にはポルトガルの植民地であり、ペナン州は英国の東インド会社の基地となって居ました。

首都のクアランプール自身も歴史は比較的新しく、日本の明治維新と略同じ頃の1870年に錫の発見が契機となって開かれたと聞きました。

マレーシアは英国の統治時代に現在の首都クアランプールを取り囲む地域ゴンバック川とクラン川の合流地点から大量の錫が発見され、その錫の積出港としてクアランプールが発展したと云う歴史がある通り、錫の産地として一躍有名になりました。

そしてこの錫に少量の銅とアンチモンを加えた合金が同国の特産品ピューターとなっており、軽くて美しく保冷性の高いマグ等の

製品となりマレーシアの人気特産品になっています。

さて、僕が日本の総合商社の地区支配人をしている時に、シンガポールに最も近いマレーシアのジョホールバル州の東海岸で中国系のシンガポーリアンがアブラヤシを大量に生育し、それを日本の商社が日本に輸出していました。

この頃は、未だバブル経済が続いておりアブラヤシ畑のオーナーは畑を潰して全部をゴルフ場に転換する決定をしました。最終的には52ホールの本格的なゴルフ場にする計画でした。先ずは先行してオープンする18ホールのコースの会員券の募集をすることになり、僕の会社関係の人や日本人会のメンバーにも積極的に販売することにしました。

この第一次募集では、1000人を目標に会員券は順調に販売されていましたが、僕が帰国予定の1992年の6カ月前位になると順調に売れていた会員権の販売がパタリと止まってしまいました。

会員権は目標の1000枚には達しておらず、300枚が残ってしまいパートナーのオーナーには申し訳ない気持ちで一杯でしたが、オーナーは慌てている様子もなく、元は取れているから心配しないで下さいとのことでやっと安心しました。

このゴルフ場の建設中の大事件と云えば、建設事務所の50メートル手前の至近距離にシンガポール空軍の戦闘機が墜落してきたことです。ご存知の通り、シンガポールの国土は日本の東京都程度の広さしかない小さな都市国家ですから、飛行機は飛びあがったら直ぐに旋回しないとマレーシア上空を侵犯してしまうことになるので、パイロットは曲芸の様な訓練を受けているとのことでした。

それにしてもパイロットはパラシュートで脱出していたので、無事でしたが若し戦闘機が建設事務所の上に落ちていたら大惨事になるところでした。

マレーシアは典型的な多民族国家で、マレー系(70%)中華系(20%)インド系(10%)等民族の外に首狩り族のイバン族等の地場民族や先住民族で構成されていますが人口的にはイスラム教を信仰するマレー民族が大多数を占めています。中華系移民やインド系移民等も独自の文化や風習を守りつつ他の地場民族とも共生している独特な国家を構成しております。

その他ポルトガル、オランダ、英国等植民地時代にはマレー系、インド系、中華系の民族と土着の民族との混血の子孫の人々もおり、宗教もイスラム教の外ヒンドゥ、道教、仏教、キリスト教等が混在しておりお互いに干渉することなく共生していると云う模範的な多民族、多文化社会を構成している独特な国家とも云えます。

中華系の民族もシンガポールの中華系とは可也異なった比較的温和な人々が多い様に思います。会社のビルのオーナーがこの地域では著名な中国系の人でしたが正月に慣例によって新年の挨拶にご自宅を訪問する際にご挨拶に持参する物を何にしたらよいのか僕の現地秘書に尋ねたらミカンを二つもってゆき、「コンシー・ファチャイ」(オメデトウございます)と云って両手に1個づつ持ったミカンを渡して下さいと云はれてビックリしたことを覚えています。

ミカンの色はゴールドであるから【金】の象徴であり、「両手に金」と云う意味で慣例的に「裕福で幸せな年を!」意味し多くの人が行っているから心配ないと云われてその通りにご挨拶に自宅を訪問しました。

尚、正面の門から玄関までの通路が金柑の様な実をつけた植木鉢が並べてありましたが、これも「黄金がウラナリ」を意味して正月の飾りや贈答としても良いと聞いて僕も金柑の植木鉢にすれば良かったと後悔してましたら、秘書嬢にどちらでも同じご挨拶として受け入れているので、全く心配ないと諭されました。

中国正月には獅子舞(ライオンダンス)、お年玉、七日粥、15日間の正月明け等々日本独特の正月の慣習と思っていた事が殆ど全部中国古来の風習に基づいているのだと知ったのもシンガポール、マレーシア等の風習に接して学んだ事でした。尚、マレーシアの場合は、中国文化の風習も至る所で感じますが、約70%の人がマレー系のイスラム教徒ですから、中国文化とは全く異なる風習の中で生活している事も知りました。この東南アジア地域の文化や風習の相違を体験出来た貴重な経験となりました。

さて話をマレーシアに戻しましょう。マレー風俗の展示で知った、イスラムの死者の埋葬の仕方が特異で、他の国とは全く異なっていることをマレー博物館で見て印象的でありました。今でもイスラム系は基本的には土葬で、死ぬと24時間以内に埋葬されることを知りました。死体は白い布でミイラの様に全身包帯をする要領でグルグルと全身をスッポリと包み、顔はメッカのある西の方向に向けて埋葬します。

墓地では頭と足の位置が分かる様に標識が建てられています。

さて、イスラム教徒のラマダンの断食の件ですが、期間は約1ヶ月続きます。陽の昇っている間は食事も水も飲まず昼飯は取りません。食事は陽の昇る前の午前5時頃に摂り夕食は陽が完全に沈んだ午後7時過ぎに摂ります。

赤ん坊や子供、体力のない高齢者は例外とされますが、イスラム国の場合でも国によって色々細かな点で相違があるようです。

マレーシアでは、断食の禁を犯すと刑務所に入れられるそうですが、国によって色々な取決めも開始時期も異なる様です。

此のラマダンが終わると“HARI RSYA”(ハリラヤ)となり、イスラムの正月が始まりますが、この日も国によって多少の相違がある模様です。

HARI RAYAの前日になると、イスラム教徒はモスクの集会場に集まりお祈りを行うそうです。キリスト教徒のX’mas イブのミサと同様かと思います。

この様にマレーシアが多民族、多宗教、多文化を尊重して大きな争いを起こしていないことは、特筆すべき国と讃えたいと思います

第26話 東南アジアのカラユキさんと無名墓標

 

 

k  常夏の国の多い東南アジア諸国のマレーシア、インドネシア、パプアニュウギニアやインドネシアから嘗ては大量の南洋材が加工されず、伐採された丸太のまま、日本、韓国、台湾等の外国に輸出されていた。しかし、木材輸出諸国での、木材の乱伐採や環境破壊等が大問題となり、1973~4頃から木材輸出の規制が厳しくなって、特に丸太のまま の輸出は厳しく規制される様になった。

もっと付加価値をつけた合板や建築用製材や家具類へと加工品が多くなると同時に木材の輸出入規制が厳しくなった。マレーシアのサバ州やサラワク州からの日本への木材輸出は群を抜いていた。

且つてはラワン材の輸出国として、知られていたフィッリピンからの輸出も乱伐の結果が災いとなり資源が枯渇し、南洋材の他の輸出国にも影響し、インドネシアは原木の輸出を禁止した。もっと付加価値を加えた合板とか建築材や家具等へと転換して行った。

マレーシアからの原木輸出も嘗てはサバ州が最多であったが、僕がシンガポールに駐在していた1990年前後既にサラワク州がサバ州を凌駕していたがいずれはサラワク州からの原木も枯渇すると危惧されていた。

さて、仕事で南洋材に初めて接して非常に驚いたことがあります。丸太には断面を見ると年輪が当然あるものと思い込んでいたが、南洋材には殆ど全部年輪が無かったのです。何故か。云われて見れば納得するが、四季のある地域では夏と同様に冬もあり、夏冬の温度差が木の年輪をつくる訳で常夏の国の木には年輪はつかないとのことであった。

サバ州の首都、コタキナバル(Kota Kinabalu)の名前の謂れをマレー人に聞いたところ、Kotaは“街”、Kinaは“Chinese”,  Balu”Widow”中国未亡人の街”だと云う。

即ち、中国人女性がボルネオのサバに住み着き、マレー人の海軍軍人と結婚したがある時の海戦で戦死し、帰らぬ人となってしまった。そんな事を知らないその未亡人は、夫の帰りを何時までも待ち続けて、遠くから帰って来る船が望める山の上に立って、命尽きるまで帰りを待ち続けたと云う。

その山が現在のMt.Kinabaluであるという。日本の渋谷駅前の忠犬ハチ公と同じ様なストーリーだと思いました。

しかし他のマレー人の話では、この地域の原住民で嘗ての首狩り族のカダザン族は人が死ぬと、その魂を救う為に死体に「竹の棒」を突き刺しその死体の中の魂が竹の筒を通って外に出るようにする風習があるそうです。 

そして、外に出された死者の魂は上空へ昇り、キナバル山の頂上に漂っていると云う。“精霊が集う”と云う意味が“KINABALU”と云う謂れによるとの事の様です。キナバル山は4,000メートルを超える東南アジアでの最高峰の山で死者の精霊が集うと信じられているそうです。

中国人の未亡人の話にしても、首狩り族の精霊の話にしてもいずれもロマンの溢れる伝説で人々から崇められている霊峰キナバル山に相応しい話だと思います。このサバ州からの木材の一大積出港であった港街が“サンダカン”です。この街が山崎朋子の小説”サンダカン八番娼館“のモデルで、1974年に映画化されました。明治時代沖縄や九州地方から貧困から15~16歳位の娘を「からゆきさん」として知られた人身売買の悲しい物語です。僕がシンガポールに赴任して間もなくシンガポールの日本人墓地を訪れた時に無数の30センチ四方位のやまがたのコンクリートの墓標を目にしました。この墓標には名前も何も記録されていない粗末な墓標でした。これがシンガポールでの娼館で亡くなった“からゆきさん”のお墓と聞いて涙を誘われました。その墓標の中に幾つかの大きめの墓標があり生前の名前や呼び名を刻まれたお墓もありました。

これは、娼館で人気もあり稼ぎもよかった女性の墓で、やはり“からゆきさん”のお墓でした。同じような無名の墓標がボルネオ島のあちこちの墓地に沢山あるそうですが墓標もなくひっそりと地中に眠っている“からゆきさん”の一生を思うとやり切れない気持ちになります。

現在の日本の繁栄の陰には彼女たちの望郷の念を持ったまま、各地に散っている気の毒な日本人のことも忘れてはならないと強くおもいます。 年輪の無い木材と無記名の墓標といずれも忘れられない南洋の記憶です 

第27話 剣舞で歓迎されたメキシコ出張

  剣舞で歓迎されたメキシコ出張

南米大陸で本格的な製鉄をしている国と云えば、当時はメキシコとブラジルに限られていた。しかも高炉からの一貫製鉄所があったのは1980年頃迄はメキシコのみであったと思う。

そんな事情で僕は首都のメキシコシティに1ヶ月程滞在してメキシコの鉄鋼業の状況を調査しつつ製鉄関連の引合いをチェックしていました。

メキシコシティは海抜2,250mで富士山の5合目で生活しているのと同じであるので、ちょっと早足で歩いても息苦しくなるほどでした。1970年代の通信法は、テレックスが主流で日本との情報のやり取りは殆どがこの方法でありました。日中はメキシコの取引先との打合せや情報収集でデスクワークは、専らその日の内に得た情報を日本の本社や日本のメーカーに報告や相談事の連絡で、テレックスでのやり取りが主流でした。

外出から事務所に戻って日中の仕事の報告などをテレックスに打ち込むには、それなりの文章にしていると可なりの時間が必要となり、出来上がったらそれを電報局まで持って行かねばなりませんでした。しかも、困ったことに電報局の締切時間が夕方の早い時間であったので、毎日、オフイスから電報局までは走って締切前に飛び込むのですが、2000メートル以上の高地ですから走って行くと息苦しくなり、いつも肩で大きく息をしながらの毎日でした。

メキシコシティのオフイスは中年の出張所長と顧問の元気な老人でした。

出張所長は単身赴任でしたので、料理は所長自身でやっていました。得意な料理は寿司で、毎週2回は自から握ってくれました

若者の僕の働きに応える積りだったと思いますが、この料理を結構楽しみに毎日働いていたように思います。顧問のW老人は口髭をはやした可なりユニークな人でしたが、キャリアもユニークで、戦時中はインドに赴任して軍の諜報関係の仕事をしていた模様です。そんな訳で英語と スペイン語が流暢で、この語学の才能を買われてメキシコシティ出張所の顧問として派遣されていたのかと想像します。

顧問は独身でしたが、メキシコでは、若いコスタリカ人の美人女性と生活しておりました。元気な老人と思っておりましたら、矢張り若い現地の女性と住んでいたのです。

此の小さな出張所の顧問など必要ないのではと思っていましたが、流暢な語学力が買われて所長を補佐するのだと理解しやっと老人の存在理由が分かりました。

その老人の顧問が若い僕が毎日忙しそうに飛び回っている様子をみて、多分僕を慰労と激励の積りだったと想像しますが、ある日コスタリカの美人女性と生活している自宅に僕を招待し、彼女が料理してくれる日本食をご馳走してくれることになり、日本へのテレクッスを打電した後、彼の車で自宅まで乗せてくれました。その日の仕事も無事終わって僕も久しぶりにリラックスしたのか、彼の運転中に僕は鼻歌を歌い始めていました。

その時の鼻歌が偶然、三橋美智也の「武田節」で歌詞に詩吟が入っていたのです。「甲斐の山々陽に映えて、我出陣に憂いなし・・・・」僕の父が戦時中近隣の青年を集めて家で詩吟を教えていたので、詩吟は兄と共に年中トレーニングされていました。色々な詩吟を可なり上手く吟じることが出来ていましたので、武田節の詩吟の部分も全部歌ったのでしょう。運転中の顧問は驚いた様子で「君は詩吟が上手いが習ったのか?」と急に質問してきたので、

父親が先生だったことを伝えたら、家に着いたら何か詩吟だけを吟じてくれと要求されました。その日の夕食はすき焼きで、全てコスタリカの女性が一人で手際よく準備し皆で久し振りのすき焼きに舌ずつみをうちました。

夕食が終わるや否やそのW顧問は、寝室に入りなにやらゴトゴトと音をたてて準備してから居間に出て来ました。僕はアット驚きました。彼は着物に着替えており鉢巻と襷がけで、日本刀の真剣を抜き身で持って居間に登場して来たのです。そして僕に向かって歌ではなく詩吟だけを吟じてくれと要求して来たのです。僕には詩吟のレパートリーは可なりあったのですがその場の雰囲気を即座に察して、乃木希典の「金州城」を真剣に吟じました。

「山川草木轉荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外  立斜陽」。

僕が感情を込めて、大声を張り上げて吟じている間、彼は日本刀を勇猛に振り回して一世一代と思われる程の剣舞を舞いました。素晴らしい劇場となりました。彼は剣舞を踊る機会が全くない所に思いがけなく若い僕が詩吟を吟じるとは夢にも思っていなかったのだろうと想像しました。またW老人は未だ戦中派の人だと察し、サービスの積りで日露戦争時代の将軍で、天下分け目の戦いになった旅の203高地の戦いで非常に多くの犠牲を払い、自分の2人の息子もこの攻防戦で戦死させてしまった想いを心中に込めて作詞した乃木希典のもう一つの漢詩「爾霊山」(にれいさん)も併せて吟じました。

「爾霊山険豈攀難 男子功名克艱期 鉄血山覆山形改 万人斉仰爾霊山」

(203高地を乃木将軍が爾霊山(203)と詠んだ)

W老人は、感極まって顔をくしゃくしゃにしながら僕の手を強く握り、有難う、有難うと繰り返し述べてくれましたが、僕の方も思いがげないシーンを二人で演じた様な気がして彼に感謝の気持ちを伝えました。

普通の夕食会の積りが車中のひょんなきっかけで、心が通じ合った瞬間でした。W顧問とは、これが契機となり、年齢を超えて親しくなったことは云うまでもありません。