エッセイ集(J) (第28~30話)

 

人生には辛い事も悲しい事も多いが、喜びも多く、感動もあり人間の一生は素晴らしい一片のドラマの様だ。全ての人に感謝し、祖先に感謝、宇宙の神々への畏敬と感謝は一時も忘れない。

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第28話 「サバィバル日本商社」の秘話

 

太平洋戦争で敗戦後の日本経済と産業の奇蹟的復活の原動力 の中心的存在に日本独自に発展した「日本の総合商社」の存在がありました。

戦後1945年から1965年頃までの日本の主だった商社30数社が当時の日本貿易会に登録されていましたが、通常「総合商社」と呼ばれていた大手商社は凡そ10社程度ありました。 これらの総合商社は海外に30ヶ所から70~80か所の支店や出張所を主要な国々にその拠点を持ち日本製品の輸出促進や必要な原料や資材の輸入開拓に積極的に貢献し、戦後の日本の驚異的復興と経済発展の先兵となっておりました。

例えば国の基幹産業と呼ばれた製鉄業は日米開戦時に米国は既に粗鋼生産は年間1億トン有りましたが、日本の粗鋼生産は米国の10分の1にも及ばない年間800万トン程度しかなく日米の国力の差は大人と子供程の差がありました。太平洋戦争は最初から無謀な戦いであったことは明白でした。 

日本の敗戦は広島、長崎の原爆のみではなく東京,横浜、大阪、名古屋等の都会も焼野原と化し、復興には50~100年はかかると思われていましたが、日本人の勤勉と努力により敗戦から20年後の1975年頃には日本の製鉄業は戦勝国の米国の製鉄会社を質量共に凌ぎました。しかし近年は各国が他国の製鉄会社を次々とM&Aする事によりランクは大幅に変わり思いがけない国々が上位にランクインされています。

日本の総合商社が先駆けとなり日本の戦後経済と産業発展の重要な役割を果たしたと云っても良いでしょう。ところが日本製品の輸出拡大で日本に外貨がたまり過ぎて米国をはじめ多くの国から日本への批判が出始めた為に今度は輸出ではなく内需の拡大を図り輸入を増やす方針に変更されました。そうすると今までの輸出担当は逆に肩身の狭い立場になり、輸入品を増やす方針となり、輸出に力を注いできた総合商社の立場も業績も下降し、「商社冬の時代」と云われたり「商社氷河期」とまで言われるようにってしまいました。この頃から日本では「内需拡大」と国全体で唱えらる様になりました。米国のUSTR(アメリカ合衆国通商代表部)を中心に日本バッシングが非常に大きくなって来た時代です。日本政府もこの批判に応えて外国からの輸入品の拡大を進めて貿易収支の是正を図らざるを得なくなりました。この頃僕は日本貿易会の広報部会長と云う立場にあったので、全国の中、高校の先生を対象に「国際社会における日本」と云った演題で講演を各地で行いました。総合商社が輸出振興の先頭に立っている時は赤坂や銀座のナイトクラブは輸出の商談などで外国人を接待するのに大判振る舞いをしていた時です。日本製品の輸出振興の為にジェトロでは、フローティングフェアと称する海外見本市を開く為に見本市船の「さくら丸」を世界各国の港を訪問して日本製品の見本市を開きました。

今日の国内のビッグサイトをこちらから船で押しかけて輸出促進を積極的に行った時代です。この時代が終わるとあれだけ沢山あったナイトクラブは次第に影を潜めました。

そんな時、「日本の総合商社」は今後どうなるだろうと云われ始めました。これが僕の著書「サバイバル日本商社」(日本生産性本部出版部)のキッカケだと思っています。日本が戦後の焼け野原から蘇えったノーハウを各国の日本商社の支店や出張所がその国の総合商社に成りきって日本の国の為ではなく、その国の為に輸出や貿易を振興する仕事に切り替えたらサバイバル出来ると云う僕の提案でした。日本商社自身のローカライゼーションです。

この考えはシンガポールで実行されました。現在のシンガポールのリー・シェンロン首相が商工大臣であった時、シンガポールの総合商社を育てようとして「Authorized International  Trader(AIT商社)を募集したのです。

その時僕はたまたま日本の総合商社の地区支配人兼支店長と云う役職に就いていましたので直ぐに「シンガポールのAIT商社」に応募しました。

その結果、日本の2社(伊藤忠商事と日商岩井(現双日))と米国の1社とシンガポールの地場から1社と合計4社がシンガポールのAIT商社となり、税制優遇等の特典を付与されました。

シンガポールの地理的特殊性もあり、金や石油等の相場取引がネット上で盛んに行われた結果、1991年度の僕がCEOをしていたAIT商社1社だけで年商1兆円以上の売上がありました。この頃の日本の総合商社の1社当たりの年間売上が5~10兆円程度でしたので、シンガポール1社の売上が如何に比重が大きいかが想像していただけると思います。

尚、このAIT商社は、インドネシアのリアウ島のグラナイト鉱山から大量の砕石をシンガポールにピストン運搬し第2   チャンギエアポート建築用に建築会社に売って同国に貢献しました。又、セントーサ島まで今では道が繋がっているが嘗てはフェリーで渡っていたがこれをコーズウエイで陸続きにしたのもリアウ島からの砂利が使われました。これこそ日本の貿易ではなく3国間の貿易で実現されたのです  。

第29話 ときめきのロンドン出張

 

ときめきのロンドン出張

日本の敗戦が色濃くなった1945年初めに米国のルーズベルト、英国のチャーチルとソ連のスターリンがソ連領にあったヤルタにて党首会談を行い、戦後の取決めを話し合った会談で戦勝後の各国の支配関係などが話あわれたのが始まりでした。 その後、米ソの思惑から紆余曲折を経て、第2次世界大戦の終結後、資本主義と民主主義の代表格の米、英、仏を中心とした西側の自由主義、資本主義陣営とソ連を中心とした東側の社会主義、共産主義陣営に2分化され、東西冷戦時代が始まりました。ドイツが東西に離されてベルリンに壁が築かれ東ドイツと西ドイツに分離されました。     1945からベルリンの壁を取り除かれた1989年迄、米ソ2大大国を盟主とした東西の冷戦時代となっていました。僕が商社マンになったのが1961年ですから商社マンとして世界を股にかけて活動していた壮年期は殆どこの東西冷戦時代でした。従って僕がヨーロッパやアラブやアフリカに出張する時は、今の様にソ連や中国の上空は飛べずに先ず日本からアラスカを経由し北極海の海上を飛んでロンドン迄行きました。

従ってロンドンまではアラスカから16時間もノンストップで海の上を飛んで行かざるを得ませんでした。人種差別政策を取っていた南ア航空はアフリカ大陸の上空も飛べませんから、ロンドンから南アのヨハネスブルグ空港までも陸地から離れた海上のみしか飛行出来ませんので長時間飛行機の中だけで過ごすので体調を壊すこともありました。そんな事情で日本からアフリカやヨーロッパ、アラブ諸国への出張は殆どロンドン経由となり途中でロンドンに1~2泊出来たのは本当に救いでもあり、その間に色々な事も出来ました。

その頃、僕は若いのにパイプ煙草を好んで吸っていましたのでロンドンでは日本では中々手に入らない様なパイプや煙草を買うのが楽しみでした。特にロンドン市内の「ボンドストリート」には僕のお気に入りの煙草や小物もありロンドンは僕の隠れたお気に入りの場所でした。

この頃僕は古い懐中時計の収集もしてましたので土曜日の午前中の骨董市が開かれる港町のポートベローへそそくさと出かけて行きました。懐中時計はネジで巻く時計で無く「フィジー」と呼ばれる「鍵つき鎖巻懐中時計」を専門に集めていました。

又、此の頃ひょんな事から親しくなった英国貴族の初老の紳士と親しくなり、ロンドンでは、しばしば彼と会って彼の乗馬クラブで昼食をご馳走になりながら四方山話をすることが楽しみの1つとなり、ロンドンに立ち寄る魅力の1つでした。しかし、ある日彼は突然の事故で倒れた馬の下敷きになり亡くなられた事件があり折角の僕の異文化交流の要を失ってしまいました。

ロンドンでは時々ゴルフをしましたが、驚くことが色々ありました。ゴルフボールをラフや林に打ち込む事がしばしばありましたが林の中には、日本では貴重なゼンマイが群生しており、急いでゼンマイを大量に積んでゴルフバックに一杯詰め込んだこともありました。

又、此の頃ロンドン郊外に「ホーランドハウス」と云う3階建の白亜の長屋が一部売りに出されていました。好奇心旺盛な僕は見学しつつ冷やかしで見に行きましたら1階と地下1階を併せて600万円と聞かされ安いのでビックリし、これなら買っておいても良いかなと思った程でした。今から40~50年前は英国の不動産は非常に安く、ロンドン出張の際のホテル代わりに買っても良いかなと可なり真面目に考えたこともありました。ロンドンは僕にとってはとても魅力のある住みやすい都市になっていたのです。蛇足ながらロンドンの不動産価格はその後急騰してそんな価格帯では全く買えなくなり、僕の不動産の興味はなくなったほどの値上がりとなりましたがロンドンは僕にとってはとても魅力のある都市でありました。安堵感でホットするのです。

英国にはフランスやイタリーの様な美味しいお国料理が無いとよく云われますが、日常の彼等の食べ物にも郷愁を感じる食べ物があるものです。例えばアフタヌーンティに欠かせないスコーンも一緒にたべるクリームやジャムとの組み合わせにもささやかな英国の名物となっていますが、スコーンにも色々な調理法もあり色々な組み合わせで朝食にもよく食べられていました。個人的な好みを申せば、朝食で出されるグリルドキッパー等は好んで註文したものです。

スコーンもアフタヌーンティとの組み合わせのイメージが強いので紅茶との組み合わせがオーソドックスですが、コーヒーと一緒に好んで食べることもあります。フランスやイタリー、スペイン料理の様な際立った存在感はないにしてもパステル画の様な淡い魅力を与えてくれます。僕はそんな英国に魅力を感じておりました。

第30話  ベトナム賛歌

僕が初めてベトナムの地に足を踏み残したのは今から30年程前の

平成が始まる直前だったと記憶している。従って南北ベトナムの戦争が終結した1975年から15年たった頃である。未だ戦争の傷跡も

残っている頃で、ホテルも整備されてるところも数える程で僕達

シンガポールからの訪問団も泊まる適当なホテルが無いので、サイゴン川に停泊しているオーストラリアの客船に宿泊し、ベトナム代表の実業団との会合も僕達が宿泊していた船内の会議室で行われた。

ベトナムは初めての訪問だったので、市内を歩いて見学した。最初に注目したことは、舗装されていない道の両側でミカン箱の様な箱が沢山並んで子供達が何かを売っている様であったが、箱の上には

コーラの瓶が数本置かれていた。コーラを売っているのかと思ったが中味がコーラよりか色が少し薄いように思えたがその箱の前にバイクが止まったら売り子の子供がコーラ瓶の液体をバイクの燃料タンクに注いでお金のやり取りをしていたので、バイク用のガソリンスタンドと分かった。この頃のベトナムの交通はバイクが主流であったので直ぐに理解できた。それにしても客待ちの少年達は本か新聞の様なものを読んでいる子供を多く見かけたので、現地の駐在員に聞いたらベトナムの識字率は80%以上であると知った。これは東南アジアで最高の識字率だと知った。ベトナムの当時の交通手段はバイクであったが殆ど日本の「ホンダ」が主流であった。   この時知ったのは、化粧品は日本製であれば「資生堂」と貧しくてもブランド品を好むと云うことである。フランスをはじめ多くの大国による植民地支配や戦いに屈せずに独立を勝ち得た国のバックグラウンドが分かって来たような気がしました。日本も戦後ベトナムへの経済援助として日本の「米の精米機」を輸出しましたが、この精米機を導入する事でベトナム産のコメが革命的にコメ以外の石や混ざりものが無くなったのを契機としてコメの輸出国となり外貨を稼ぎだしました。東南アジアではタイが最大のコメの輸出国として知られていましたが、今やベトナムがコメの主要輸出国として知られるようになっています。ベトナムがコーヒー豆の輸出国であることもこの時しりました。

日本のブランドとデザインの縫製工場を訪問した際、大勢の縫製

スタッフが作業をしているホーチミン市近郊で見学しましたが

出来た製品の検品作業でスタッフ達の真剣な作業光景を見てベトナムと云う国民は他の近隣諸国には見られない国民性を持っていると云う印象を持ちました。思えば僕が南アフリカのヨハネスブルグ

に支店長として赴任している時に部下に繊維担当の駐在員でベトナム人の女性と結婚し、2人の娘がいましたが2人とも頭が際立って良いことを思いだしました。

話は変わりますが僕がベトナムへ日本企業の代表として最初に訪問した時ベトナム側の代表者が僕達のミッションの歓迎の挨拶でベトナムと日本との共通の誇りとして、日本もベトナムも蒙古に侵略されそうになったが、2度襲われて2度とも撃退したのは日本とベトナムの2国だけで、これは両国共通の誇りであるとの挨拶されました。

それに対する僕の答礼の挨拶で、それは共通の誇りではありますが、日本の場合は2度とも偶然台風が来て戦わずして撃退出来たのに対し、ベトナムは知恵と剣と力で撃退した事を知っている。ベトナムの方が誇り高い勝利ですと答礼したことを思い出します。当時ベトナムから日本へエビの輸出もしていましたが、日本の市場ではエビの2本の手のハサミは揃っていないと市場価値が下がってしまうので心配ではありましたが、ベトナムの検品はいつもきちんとされており安心してました。ハサミの欠けたエビはシンガポール等に輸出されていたようです。1992年にはシンガポールの駐在から帰国してからはベトナムへは行く機会が無くなりましたが、ベトナムは僕にとっては中味の濃い素晴らしい国となっております。