リクルートの創業者、天才江副君を偲んで

20132月、江副君の訃報をテレビのニュースで知って、突然の報道に驚いた。しばらく疎遠であったが残念なニュースに接し、生前の彼の偉業に拍手を送りつつ、ご冥福を祈るばかりであった。

リクルート事件と云う、日本中を揺るがす様な事件を1988年に引き起こし、彼は失脚してしまったが、かかる事件が無かりせば、彼の才能は限りなく発揮されて、日本の経済界に計り知れない貢献をしたであろうとおもうと残念である。

 江副君との出会いは東大本郷キャンパスである。彼の専攻した学部は教育学部心理学科、僕の専攻は文学部心理学科で学部は異なるが共通の心理学の講座や異常心理学の授業で医学部との合同授業で一緒になることがしばしばあった。

又、2人の生年月日が昭和116月生れの同い年であることで、親近感を持った。

しかし、最も親しくなったのは、東大学内の「若葉会」という社交ダンスでの交流でした。その頃、東大には競技会レベルの本格的なダンスクラブとしての「ダン研」と同好会レベルの「若葉会」があり、僕たちは共に若葉会でダンスを武器に多いに青春時代を楽しんだ。女子大とのダンスパーティや当時の四谷駅前の「主婦会館」で各種パーティが行われしばしば一緒に出かけていった時もあった。

その当時、彼は東大新聞の広告取りをアルバイトをしていたが卒業後の希望就職先、を聞いたらアルバイトの経験を活かして起業し、「大学広告社」を創業すると聞いて驚いた。今で云う、ニッチ産業だ。この頃の広告業界では既に、電通、博報堂、大広等が業界を支配しており、その中での広告会社の創業はあたかも敵の戦車に向かって竹槍で戦いを臨む様なものだと思ったからである。彼の情報によれば当時、全国には900校余りの大学、短大、専門学校があり、この業界に特化した広告代理店を創業すると云う斬新なアイディアを滔々とのべた。これが、今日の大企業「リクルート」の原点となったのだ。

しかし、スタートは「大学広告社」であったが、各企業からの広告の依頼が「人事部」からが多く、他の企業は広告は宣伝部とか広告部とか広報からであるのとは異なっていた。

又、此の頃の市販の就職案内用の会社情報は1冊に多数の企業案内を載せていたので、1社当たりの紹介は、2~3ページ位しか出来ないので、内容は極めて一般的な簡単な内容で就職用の会社案内とは云えるものではなかった。

ここからが企業家としての江副君の知恵が発揮されたのです。1社当たりの紹介記事を10頁位にして、掲載企業からは、1社当たり30万円程度の会費を取り、30社で1冊に編集したと思う。そしてその会社案内本は、無料で学生に配ったので大反響となった。しかも、企業によって配布して欲しい学校と配布しないでよい学校を選択することも出来るので、そのページを製本の段階で選択して配布したのです。

誰でも思い着く様でありながら気が付かない企画です。従って印刷代と製本代を安くする為の工夫をしていたのです。

その当時僕の父が愛宕下で印刷会社をしていたので、父も破格の値段で色々協力してくれました。詳細は不明ですが、江副君の企業資金は確か彼の叔父さんからの70万円の出資で始めたと聞いています。従って資金的な余裕は殆どなく起業したので、節約と工夫が効を発揮したと思います。

従って当初の会社の事務所は西新橋の森ビルの屋上におっ立てた小さなプレハブの事務所から始まりました。次の彼の着眼点も良かった。大学広告社の広告主が上場企業の広報や宣伝部でなく、殆んどが「人事部」であることから、企業の人材採用に着目して社名も「大学広告社」から「リクルート」へと衣更えしたことでした。

 これと並行して、各企業の詳細な会社案内を会費制で一業種一社と云う企画で20社程にまとめて案内本とし、学生に無料で配布したのも斬新なアイディアでした。

出版費は、企業からの相当額の会費でまかなったので、ここからの利益がリクルートを躍進に導いた。企業主の希望で特定の大学を選ぶ時は、案内本に載せる企業と載せない企業をそのページだけを取り換え新規企業の追加で簡単に選別編集出来ました。

素晴らしいアイディアの連続で、企業は更に躍進しました。その時には、既に屋上のプレハブ事務所を脱出して、西新橋の中規模のビルを一棟賃借していたが、銀行からのアドバイスもあり頭金を払って、そのビルを買い取ったと記憶してます。折からのバブル経済で買取ったビルの資産価値があっという間に大きくなり、次々とビルを買取り始めたのが、不動産業

リクルートコスモスのスタートとなりました。

 その後、彼はスーパーコンピューター基地を川崎に作り、いよいよ情報産業に進出する段取りだったが、例のリクルート大事件を引き起こし、失脚することになってしまったのは残念でならない。自業自得とはいえ、多くの可能性を秘めた才能が抹殺されてしまったことになります。

小さな印刷会社を経営していた僕の亡き父も、僕の友人と云うことで

会社案内本を超格安で印刷し、創業時代の彼を応援していましたが、江副君がリクルート事件で失脚する前に他界してしまったので、彼の苦境を見ないで一生を終えたのは幸いだったかも知れない。

事件が一段落して彼は財団法人江副育英会の理事長として、現場から離れてしまったので、事件以降、彼と会う機会は殆んどなくなったが、彼は「学生時代のダンスを始めた」と風の便りに聞いていたので、機会を見て学生時代のダンス談義でもしようかなと思っていたので、残念だ。

彼のご冥福をお祈りします